飛行学生クラブのお兄さんたち
五島 和明
この度、市瀬さんから「飛行学生クラブ」について何か書いてみないか、とのご依頼を受けました。
戦後30年を経た今日でも、お元気な皆様何かと親しくご交際をいただいておりますが、亡くなられた方のご遺族の方々には、クラブについてお話する機会もなく、今日に至っておりますので、これを機会に、その一端でもお伝えできれば幸いと存じ、残された「寄せ書」のご紹介と、当時の「アルバム」から、その思い出を綴ってみました。
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私の手元には、今でも時折開いては、「あの頃」を思い起し、父母達とも思い出を語り合う「寄せ書」と「アルバム」がある。
「寄せ書」は、小さな記念スタンプ帳に墨で書かれたもので、表紙には「贈 五島圧三郎殿 鹿島海軍航空隊第四十一期飛行学生一同」と記され、学生卒業時、新任地に赴かれる際に書き残されたものである。
「轟沈 色ハ黒デモ飛行機乗リハ
などと、ユーモアを交えたり、絵や写真入りで書かれたものが多い。中でも故人の方々は
「吾等ノ家庭 色々有難ウゴザイマシタ
「半人前の候補生時代から吾等が家として毎日曜お世話になった倶楽部、今更ながら分れるに耐え難い気持が致します。お別れに臨み皆様の御多幸を祈ります。
夏ふかみ 思ひもかけぬうたたねに
昨日まで 手をとり合ひしはらからと
幾十度 来りしことかはらからの
いざ征かむ 強き丈夫の心もて
バーヤサンによろしく
「針路一八〇 ヨーソロ 一路南に向って転勤致します。
それから針路九〇度 ロッキー山脈を越えて地球の裏側で活躍します。オワリ 〃皆様御世話になりました。御健斗
「長い間本当に有難うございました。愈々一本立になって一生懸命御奉公致します。和明君が兵学校に来られるよう御待ちして居ます。では皆様御元気で。 江戸っ子 中川少尉」
「オヂサン オバサン 皆サン 随分御世話ニナリマシタ私モ少シ遅レマツタガ近イ中ニ 三人乗リノ車引キニナッテ活躍スル積リデス 水戸ッ子 石川幸夫
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土浦の郷里の家が「クラブ」となったのは昭和十八年の秋であった。街には、戦時の緊張感はあったが、新聞は南太平洋の華々しい戦果を報じ、敗戦の影はなかった。
当時わが家は、父、母、祖母、私、妹二人、弟二人、バーヤそれに犬二匹がいた。
クラブには、庭に建てられていた離れが当てられていた。
ある日曜日の朝、大勢の海軍サンが見えられ、小学生であった私は、父母に連れられて挨拶に伺った。
「お世話になります」元気な太い声と共に
「オイッ ポーズ こちらへ来い 一緒に遊ぼうや」大きな声を掛けられた。
この時が、当時の少尉候補生七十二期の方々に初めておめにかかった時であった。
その後の毎日曜日、わが家は一日中賑やかなクラブとなり、はちきれる若さに溢れ、私は一度に大勢の「兄貴」を得た気持で満足な日々を過した。
「アルバム」には、その頃のスナップ写真が数多く残されている。
「昭和十九年二月二十六日第四十一飛行学生記念」の文字が入り、二十余名の方々の並んだ鹿島航空隊での記念写真を初め、
少尉候補生時代の難波さん、富田さん、
飛行服姿の上田さん、石川さん、坂田さん、西尾さん、三浦さん。
クラブ玄関前に並んだ飯島さん、東浦さん、難波さん、金子さん、宇野さん。
ドテラ姿の前原さん、上田さん。
白い二種軍装の××さん、○○さん、
帽子を横ッチョに被った△△さん、
それに私共の一緒に写っているものなど、いずれも当時の凛々しい若い士官服姿や、日曜日の寛いだ日々のものである。
この他、写真には残されていないが、晴れた日の庭で、Yシャツ姿での相撲、年末の餅搗き、正月の羽根突き、春の田圃道でのザリガニ釣り、満開の桜川堤の花見、散歩、また
このように賑やかに過す反面、私はまた、この方々から、多くの江田島教育の徳目や、生活を教えられた。
真の正直者、言い訳をしない、不言実行、至誠、気力、几帳面さ、負けじ魂、スマートさ、五分前の精神、船出の精神、そして棒倒し、裸体操・・・など。
私は、当然のこととして兵学校を目指した。
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昭和十九年夏、飛行学生を卒業され、ほとんどの方達が各地へ転勤されると、クラブは、急に淋しくなった。
そして戦争は一段と苛烈さを加え、各地から戦死の訃報が日を追って多くもたらされるようになった。
母、祖母は、その度に涙し、香煙の中にご冥福を祈った。
やがて終戦を迎えた。
母は、今でも、あの方の戦死が知らされた夜には・・・・、この方が逝かれたと聞く日には・・・・など、散華された方々の思い出を話す時には、必ず涙を新に、声を詰らせる。
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昭和四十七年四月末、江田島の術科学校に坂田さんをお訪ねし、構内を案内していただいた。
赤煉瓦の生徒館、大講堂は昔のままであるという。教育参考館では、散華された方々のご芳名を刻んだ大理石の銘牌を拝した。
翌日、坂田さんの坊ちゃんも一緒に三人で古鷹山へ登った。
崩れ易い山肌を登り頂上に立つと、能美島は、旧呉軍港は、音戸の瀬戸は総て晩春の陽を一杯に受けて静まり返っていた。
「ここの展望は、今も昔も変りませんよ」
坂田さんは、あの頃の思い出話や、島々の説明をされながら、そう呟かれた。
三十年前、江田湾は、やはりこんなに明るく静かだったのだろうか。再び帰らないあの方達は、ここで日夜鍛錬を重ねておられたのだろうか。その方達の陽焼けした笑顔。楽し
そうに話してくれた古鷹登山、弥山登山、カッター訓練、棒倒し、姓名申告・・・などの江田島生活。そして私もそれを夢見ながら、終戦によって果されなかった時のくやしさ。
あれから長い年月が流れた。その間祖母も逝き、バーヤも他界した。
私は、次々とそんなことを考えた。話しながら山を降りると、途中、若い隊員や子供連れの方達が登って来るのに出合い挨拶を交した。麓の日溜まりでは、お年寄や家族連れが草の上に腰を降ろし、お弁当を開いて談笑していた。
「あれから三十年、平和な時代が続いているんですね」
そんななことを話しながら帰路に着いた。
江田島の「つつじ」は、満開の花をつけ、この平和な春を謳歌していた。
東京都世田谷区下馬二丁目二六番一五ノ六〇二号
(電話)〇三−四一〇−〇六九五
(旧クラブ住所)
茨城県土浦市大町一〇ノ三
五頭 庄三 郎
(電話)〇二九八−二一―〇〇五五
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(編注、水上機操縦学生は小人数でまとまっていたので、本文のとおり江田島時代と同様に民家をクラブとしてもらっていたが、霞浦の学生は、東京新橋の第一ホテルの一室を借
(なにわ会ニュース32号11頁 昭和50年3月掲載)