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期友の断想

飯沢  治

終戦後もう七年である。考えて見れば我々が兵学校に入ったのか昭和十五年で終戦が昭和二十年、おの間僅か五年足らずである。私の今迄の生活の中で五年間程思い出の多い年はない様な気がする。今度世話人諸兄の御尽力で期会誌が出来るようになってこんな嬉しい事はない。人のやる事にケチをつける者は多いが、さて「やって見ろ」と云うと何とかかんとか理屈をつけて尻込みする者が大部分ではないだろうか。何でも先鞭をつけるには障害が多い。この会誌を通じてクラスの諸兄の消息、活躍を知るのが、我々の楽しみ、また、励みになると信じる。  

  一号(四十八分隊)時代一緒だった諸兄の中で生き残っているのは、府瀬川清蔵、菅井  超、泉五郎の三君と私の四名。小林正二 野中繁男、飯塚勝男、岸雪雄、今田勝治、林慶治の六君は戦死、クラスの死亡率でいうと高い方である。小林兄は私が飛行学生中、当時東京の家へ尋ね来て呉れて、母に会ったそうだが、私は丁度通信派遣教育で三重に出張中で会えず、遂に卒業後拝謁の時に会っただけになってしまった。今田、林兄も同様会はず仕舞、野中、飯塚、岸の三君は飛行学生で一緒だったが艦攻、戦闘機、私は偵察と分れて飛行学生卒業以来会はず仕舞いである。  

  飛行学生の頃、霞空で飯塚兄が飲酒を許されて間もなくの土曜の晩だったと思うが、すっかり酔って徳利を口に当ててガブガブやって、坂元(正一)に止められて居たのを今でも思い出す。小林兄が総短艇でダビットが毀れて岸壁から墜落、その為心臓の鼓動がおかしくなったとかで、彼の希望の航空に行けなかったこと、生真面目な岸兄、いい男だった今田兄、快活な林兄、皆いい連中だった。生き残った三君の中、終戦後会って居ないのは菅井兄だけだ。  

  飛行学生で百里空に居た頃、九分隊二号室六名(桜庭正雄、松本昌三、東浦登代治、石原輝雄、土井渉の五君と私で気の合った連中だった。その中生存者は私一人になって仕舞った。桜庭兄が外出日、石岡からの最終定期に乗り遅れ、二号室一同外出止めとなった。それを、教官に頼んで外出止を繰り下げて貰って袋田温泉で二号室会をやったのも、楽しい思い出で「アルバム」を見る度に思い出すが、今は共に語る人は居ない。  

  私が佐伯空に居た時、東浦兄は大湊空から電探演習に来て、その後台湾の東港に派遣され、私が九二二空に転勤になり、「マニラ」 に進出の途次(十九年十一月)束港に寄って真っ先に彼を尋ねた時は、部屋の入日に東浦中尉という名札が空しく下がっている丈だった。 土井兄には百里空時代よく郷里の学校の校長先生のお嬢さんという人から麗筆の手紙か来て見せつけられたものだったが、彼は比島の索敵に飛行艇で活躍して居るのをよく聞いた。他の諸兄についても思ひ出せば限りがない。樋口兄を始め幹事の諸兄の御尽力により、遺族会が催される事になり御同慶の至りである。遺族の万々や我々生存者が集れば思い出の枠も更に広がって種も尽きない事であろう。  

 それから私の希望するのは、「クラス」の写真帳の再製である。一部の人達は持って居られる様だが、大部分の人の手には渡っていないようだ。写真版が悪くて複製は出来ぬそうだが、各人所蔵の写真で、これはと思はれる様なのを持ち寄って複製出来たらと思う。  

  終戦後の娑婆の生活で種々体験休得した事も多いが、兵学校三年の生活の体験と同期の友を得た事とは、一生を通じての最も大きな収穫だったと思っている。亡くなった同期の諸兄の御冥福を祈ると共に現在各分野で活躍中の同期の諸兄の御発展を祈って止まない。

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