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國神社と父
 (なにわ会会長岡野武弘がご本人の許可を戴き、國令和4年3月 800号より転載いたします。)
       織 田 邦 男    (おりた くにお) 
(航空自衛隊 元空将)
 

執筆者紹介
昭和2Z年兵庫県出身(愛媛県出生)。防衛大学校卒業後、航空自衛隊入隊。F4戦闘機パイロット。米空軍大学留学、米スタンフォード大学客員研究員。航空幕僚監部防衛部長、航空支援集団司令官などを歴任。平成21年退官(空将)。現在、東洋学園大学客員教授。

 父が百二歳で天寿を全うしてから、早や五年が経つ。父は律儀で真面目な大正人だった。彼は我々子供達にも戦前の事をあまり語りたがらなかった。
九十歳の誕生日のことだ。筆者を前にして「もうそろそろ、えいじゃろう」と切り出した。何事かと思っていると、「わしは戦艦大和を造っていたんじや…」と語り始めたのだ。
どうやら呉工廠で戦艦大和の第二砲塔の油圧を担当していたらしい。筆者にとっても初耳だった。大和建造について語り終えたあと、「戦艦大和については、家族にも話してはならぬと命ぜられていたんじゃ」と述べた。

 筆者は大変驚いた。海軍からの御達しを、戦後六十年経っても律儀に守り通す。もう帝国海軍は消滅しているにも関わらず、しかも戦前を知らない筆者に対しても箝口令を守り通すとは。最後に「わしももう長くないからな…」とポツリと述べた。 禁を破った罪悪感からか、すこし寂しそうに見えた。

 筆者は、ここに実直な「大正人」を見た思いがした。先の大戦での戦歿者は圧倒的に大正人が多い。大正人の七人に一人が戦歿している。しかも戦後復興の原動力も大正人が主力だった。

 父には九歳年下の弟がいた。筆者には叔父にあたる。彼は海軍パイロットになり、昭和十八年十一月二十日、ギルバート諸島上空にて散華された。父は弟についてもほとんど語らなかった。戦死がよほど辛かったのだろう。國神社には上京する度に必ず参拝していた。

 筆者は叔父の飛行服姿の遺影を 見て育った。これが航空自衛隊パイ ロットを天職に選んだ切っ掛けだった。叔父に守られ無事天職を全うできたことを心から感謝している。

  父が最後に國参拝したのは、九十歳後半だったと思う。姉が神戸から付き添い、東京駅から筆者が案内した。もう足腰は弱っていたが、杖を突きながら気丈に昇殿参拝を果たした。本人もこれが最後だと覚悟していたのだろう。参拝が終わった後、清々しい喜びの笑顔が印象的だった。
杖を突きながら境内を歩いている時、父はポツリといった。「何で國参拝に反対するんじゃろうのお」と。

 筆者はとっさに答えられなかった。国に殉じた先人に対し、国民が尊崇の念を表し、感謝し、平和を誓うのは世界の常識である。米国ではアーリントン国立墓地に、韓国ではソウル国立墓地(国立ソウル顕忠院)に、フランスでは凱旋門の無名戦士の墓に、国家のリーダーが国民を代表して参拝する。外国の要人来訪時も、先ず参拝し献花するのが国際常識である。だが日本だけが違う。

  平成二十五年十二月二十六日、安倍晋三首相が國参拝して以来、現職首相は参拝していない。日本は何故、国際常識に沿ったことができないのか。父の素朴な問いかけである。
昭和六十年までは、首相が毎年、國神社に参拝していた。この事実を知る人も少なくなった。戦後七十七年間に限定すると、三十六人の首相のうち、十五人が計六十八回参拝している。
昭和二十六年十月、秋季例大祭には吉田茂首相以下、閣僚、衆参両院議長が揃って参拝し、サンフランシスコ講和条約調印によって日本が再び独立できた旨を英霊に報告している。

  中国が突然、國参拝を許さないと言い始めたのは昭和六十年のことである。中国は、極東国際軍事裁判でのいわゆる「A級戦犯」が合祀されていることを理由に、首相の公式参拝を激しく非難し反発を繰り返すようになった。だが、明らかに不自然である。「A級戦犯」十四人が国家の犠牲者「昭和殉難者」として國に合祀されたのは昭和五十三年十月十七日である。翌年春の例大祭前(四
月十九日)にそれが報じられたが、中国は全く反応していない。

 「A級戦犯」合祀報道の二日後、キリスト教徒の大平正芳首相が例大祭に参拝したが、抗議は全くなかった。翌五月、時事通信の取材に応じた中国の最高指導者であるケ小平氏は、國参拝にも、「A級戦犯」にも触れていない。

 大平首相はこの年の十二月、中国を訪問し熱烈に歓迎された。昭和五十五年の終戦記念日には、鈴木善幸首相と共に閣僚が大挙して参拝したが抗議も何もなかった。

 問題にしたのは、実は日本メディアなのである。朝日新聞を筆頭に左翼メディアが、國神社への首相参拝を政教分離や歴史認識などを理由に問題視した。そして卑劣にも中国に「御注進」する。ここで中国は「國」が外交カードとして使えることを自覚する。それに韓国が悪乗りした。

 昭和六十年八月十四日、中曽根内閣顎はメディアの反発に応える形で、公式参拝は政教分離には反しないとの政府統一見解を出した。翌日、閣僚を引き連れ、首相公式参拝に踏み切った。メディアはこれをヒステリックに非難し、中国に再び「御注進」した。中韓両国はこの騒ぎに呼応する形で、國参拝を強烈に非難し始めた。

 中曽根首相は、これを最後に首相在任中の参拝を止めてしまった。中曽根首相は「國参拝により中国共産党内の政争で胡耀邦総書記の進退に影響が出てはまずいと考えた」と述べているが、中国、韓国の圧力に屈し、両国に外交カードを提供した罪は重い。

 中国研究専門家のペンシルベニア大学名誉教授のアーサー・ウォルドロン氏はこの動きを鋭く見抜いていた。彼は語る。 「中国共産党にとっては真の狙いは、日本の指導者に國参拝を止めさせることよりも、日本の指導層全体を叱責し、調教することなのだ。自国の要求を日本に受け入れさせる ことが長期の戦略目標なのだ」日本政府は愚かにも、國参拝さえ止めれば中国、韓国の難癖は終わ ると判断した。中韓両国にとって國は重要な外交カードにすぎないのだから、終わるはずもない。

 教授はこうも述べる。「國は大きな将棋の駒の一つにすぎず、日本がそこで譲歩すれば、後に別の対日要求が出てくる。最終目標は中国が日本に対し覇権的な地歩を固めることなのだ」と。残念な
がら教授の予言は見事に的中した。

 南カリフォルニア大学のダニエルーリンチ教授も述べている。「中国は近代の新アジア朝貢シス テムで日本の象徴的な土下座を求めている。アジアでの覇権を争いうる唯一のライバル日本を永遠に不道徳な国としてレッテルを貼っておこうとしている」中曽根首相の譲歩は、中国の思う壷だった。

 昭和二十年、日本を占領したGHQは、國神社を焼き払いドッグレース場を建設しようとした。この時、國神社を護ったのは、ローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノービッター神父であった。彼はマッカーサーに対し次のように語っている。
「いかなる国家も、国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務がある。それは戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」「我々は、信仰の自由が完全に認められ、いかなる宗教を信仰する者であろうと、国家のために死んだものは、すべて國神社にその霊が祀られるよう、進言するものである」

 この進言により國神社は焼き払いを免れた。日本人がこれを理解していないのは恥ずかしい限りだ。父が最後の参拝で漏らした一言、「何で國参拝に反対するんじゃろうのう」との一言ほど重いものはない。
國参拝反対はメディアが作り上げた茶番である。このまま茶番が続けば、確実に日本人の精神は荒廃し、時間が経てば経つほど、日本人のモラルは低下し、国家意識は溶解していく。
「国のために命を亡くした英霊をお参りするのは当たり前の事。外国が口を差し挟むべきことではない」という世界の常識に回帰することだ。 指導者が腹を決め、毅然かつ粛々と國参拝を行えば、外交カードの効力は消滅する。効力がなくなれば、反発は一人芝居に終わる。そのためには日本人自身が正気に立ち返り、メディアの茶番に。”NO”を突き付けることだ。

 祖国と家族を護るため、命を懸けた父祖達に感謝の誠を捧げ、追悼するのは国民の責務なのである。國神社を去る時、父が言った一言が胸に突き刺さる。「国を護るために戦死した人たちを決して忘れちゃあいけんよ」


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