TOPへ 

001号

72期クラス会史抄

 

海軍兵学校出身者(生徒)名簿(別冊)(昭和601020日 3版《改訂版》)に掲載された『72期クラス会史抄』(元編集長故押本直正君作成)を基にし、その後判明したところを加味し、若干の修正を加えて作成した。

 

 ナニクソで頑張ろう

 

昭和15年は皇紀2600年に当った国をあげての祝賀気分の年であった。この年の12月1日、兵学校に入ったのが72期である。

 厳しい入校教育の最中、ある生徒は故郷に「72は7+2=9で、ナニクソに通ず。何(くそ)の気持ちで頑張る」という手紙を書いた。このことが、期訓育の席上で原田耕作主任指導官(49期・当時中佐)から披露され、爾来わが72期の合言葉は「ナニクソで頑張ろう」ということになった。

 

手元に72期入校当時109名の身上調書を分析した資料がある。丁度クラス総数の 1/6にあたり、完全ではないが、かなりの精度の高いものといえるので、これによって、わがクラスを概観してみよう。

 

(1)大正12年7月生れ、現役 62

 72期の受験資格は大正1012月2日以降1412月1日以前に出生したものとなっていた。

入校時の平均年齢 17歳5ヵ月

中学4年修学中の者    13

中学5年修学中の者    49

卒業して浪人中の者     38

 

 

(2) 平均身長   163.8cm

    平均体重    55.8s

 身体検査の最低合格要件は1718歳で身長152.0p、体重43.0sであった。

 ちなみに、当時の中学5年生の平均は

160.9p、51.8sであった。

 

(3) 父は明治23年生れ、

母は  28年生れ、

昭和15年の平均年齢は父親51歳、母親45歳であった。

 また、兄弟姉妹の平均人数は4.2名、長男49%、しかも、1人息子が16%を占めていた。

 

(4)関東勢29%、九州勢18%。

出身中学については、卒業時の総員

625名の統計がある。

 北海道14、東北34、関東182、中部90、近畿88、中国58、四国30、九州115、外地14

  関東・九州勢で全体の48%を占め、16%に当る102名が東京都内の中学出身者であった。

 

 四号4ヵ月で三号生徒

          

入校時は、一号69期、二号70期、三号71期、四号72期という編制であったが、生徒教程短縮のため、69期は昭和16年3月25日に、はやばやと卒業した。そのため、四号時代は4ヵ月で三号生徒になったわけだが、最下級生徒であることには変わりなかった。

 69期一号卒業と同時に、それまで無言の威圧をみせていた70期生が生徒舘に君臨することになり、新三号は再度「入校教育」に準じた教育を受ける羽目になった。 しかし、考えてみると、気の毒なのは72期より70期の方であろう。自分で、手塩にかけた最下級生のクラスが存在せず、いわば、69期の生んだ子供を養子として育てる格好になったからである。

 70期が卒業する時「72期は70期の四号と看做(みな)す」という言葉を残したのもうなずけるわけである。ともあれ、わが72期は69期と70期の2クラスから薫陶を受けたわけで、兵学校の歴史上でも珍しいクラスと言えよう。

 

 古鷹山下で開戦を聞

 

戦争の始まった昭和1612月8日、72期は二号になったばかりであった。  

 この朝、千代田艦橋前に集まった全校生徒(717273期)は、監事長から「本未明より帝国は、米、英、その他と交戦状態に入った」旨達せられた。

 草鹿任一校長は、「生徒の本分は常に不変である。今までと同じように勉強せよ」と諭されただけであった。事実戦争が始まっても、生徒館生活には何の変化もなかった。ただ、この朝古鷹山の上に煙幕を張ったような雲がかかり、瑞雲とも妖雲とも思える一種不気味な景観を呈したのが、今でも脳裏に残っている。

 

 田村生徒の櫂立たず

 

 『昭和17年5月17日。短艇週間最後の日なり。第4分隊第1クルーは第51分隊のカッターに移乗、競技場に出発す。「頑張れ」の声援をあとに必ず勝つとの信念の下、意気旺盛なり。

(中略)

 回頭点に至って先頭、帰りはすでに全力を使い果たし、ただ精神力のみ。漕ぐ。漕ぐ。へたばる。頑張る。遂にゴールイン。1着だ。「櫂立て」の号令、12本の櫂が勝ち誇るように一斉に立った。その瞬間、2番手の櫂がゆっくりと倒れ、田村がうつ伏せている。

 直ちに内火艇に移し、軍医官の手当てを受け、病室に自動車で運び、血のにじみ出るような努力ありしにかかわらず、田村は遂にかえらなかった。嗚呼、田村呼べども答えず。』

 同じ分隊の藤田春男生徒(昭和20年3月19日神風特攻菊水隊で戦死)は自啓録にこう書き綴っている。田村誠治生徒の死は全校生徒に大きな感銘を与え、72期の一員とし、参考館の銘(はい)に刻まれている。

 

 戦争(いくさ)はこういう時にするもんじゃ

 昭和18年4月29日、天長節のご馳走を食べて、いざこれから上陸して倶楽部にでも行こうかと考えている時、突然「一号総員集合、生徒館前」の号令が下った。礼装をつけたままの一号を前に、主任指導官の入佐俊家中佐は、例の鹿児島弁で「國神社例祭、天長節と休みが続いた。戦争はこういう時にするもんじゃ。総短艇、安渡島一周カカレ」

 帆走要具も積んだが、帆走では他分隊に遅れること必定。各分隊とも最初から橈漕(とうそう)で出港した。安渡島を1周すれば、大体宮島遠漕と同じ距離である。翌5月から始まる短艇週間のウォミングアップには一寸度が過ぎた。その夜、新装なった養浩館でのクラス会が意気衝天の観を呈したことは勿論である。

 

 練習艦隊即実戦、

飛行学生は霞ヶ浦へ直行

 昭和18年9月15日付の海軍大臣官房発行辞令公報1213号によれば、同日付で少尉候補生を命ぜられた兵学校72期、機関学校53期、経理学校33期の配置が次のように発令されている。  

発令先 兵72期 機53期 経33期
伊勢 102 40 17 159
山城 82 40 17 139
八雲 102 17 119
龍田 21 11 32
飛行学生 311 20 331
海兵団付 7 7
625 111 51 787

 校長、監事長、各監事、教官方また官舎の夫人、倶楽部の小母さん・・・・・・・下級生が岸壁にぎっしりと並んで帽を振っている。

 左様なら!軍楽隊が吹き鳴らすロングサインが、海行かば、軍艦マーチが高く低く響いてくる。(中略)

 山城が主砲12門、一斉に仰角をかけて出港。次に八雲、阿多田の順。下級生もカッターを漕いで湾口まで見送りにきて呉れる。教官方も水雷艇、内火艇で来て下さる。

 万歳、万歳の連呼、津久茂の鼻をかわると、生徒館が見えなくなる。さらば、再び見る事なき懐かしき生徒館。3春秋を鍛えた江田島よ、さらば。』

 飛行学生を拝命した伴弘次候補生(901空 大艇操縦員、19年6月11日台湾東港で殉職)はその日記に以上のように書いている。

 ここまでは先輩クラスの卒業式風景と全く同じであるが、これから先が一寸違う。

 『那沙美の瀬戸で山城、八雲と別れて阿多田は宇品に向かう。宇品から市電で広島駅へ・・・・雨がやってきた。

(中略)

 午後8時50分広島発呉経由で東京に向う。賑やかな列車に雑談の華が咲く。

(中略)

 9月16日、午後8時50分上野発。常磐線は横揺れがひどい。また一眠り。1010分頃、荒川沖駅着。航空隊のバスで霞空の学生舎に入る。』

 要するに、飛行学生を命ぜられた候補生は、艦隊勤務の経験を全く持たないまま、第41期飛行学生の教程に入ったのである。

 一方、実務練習部隊乗組を命ぜられた候補生は訓練即実戦であった。すなわち、1013日、宇品において、陸軍部隊を搭載した山城、伊勢、龍田の3艦は32駆逐隊を随伴して出撃、T三号輸送作戦に参加して、11月5日徳山に帰着、柱島経由10日呉に入港したのである。

 この行動に参加した各科候補生の功績等級6という記録が残っている。

 再び(まみ)えることなきクラスメイト

 2ヶ月の実務練習艦隊勤務を終わった各科候補生は東京に集まった。

 拝謁、賢所参拝、振天府拝観、海軍大臣招宴の行われた1118日夜、銀座の電光ニュースは、ブーゲンビル島沖海戦の戦果を華々しく報じていたが、戦況はすでに落陽にも似た観を呈していた。

 即日、各艦配乗を命ぜられた候補生は勇躍任地に赴き.この日を最後として72期は再び一堂に会する機会を全く失ったのである。

 参戦23ヵ月の間にクラスの54%にあたる335名が散った。

(押本の記事では336名となっているが、これは復員後、24年1月15日に死亡して、戦病死と認められた八淵龍二君を含めたか、生徒の時、短艇競技で亡くなった田村誠治君を加えたものと考えられるが、現在72期としては、戦没者335名として処理している)

 『願わくは君が代守る無名の防人として南溟の海深く安らかに眠り度存じ居り候。

 命より名を断ちがたきますらをの、名をも水泡といまはすてゆく。』

 昭和20年1月12日、回天金剛隊員としてウルシーに沈んだ久住中尉は、いみじくもこう書き残した。

  昭和20年8月15 

 抑モ如何ナル日ゾ

 『宿命的ナル建依別の血潮ハ遂ニ余ヲシテコノ挙ニ出デシメタリ 仮令 狂ト呼バレ 愚ト毀ラレントモ 将又敢テ軍紀ヲ犯ストモ 降伏ハ断ジテ余ノ肯ゼザル所ナリ 而モ吾 微力イカニシテ落陽ヲ既墜ニ回サン乎

 唯 余ハ愛スル部下四名ヲ率イテ鮫鰐ノ渕ヲ探リ 八ツ裂キニストモ飽キ足ラヌ驕虜ニ対シ些カ一矢ヲ酬ハンコトヲ期ス 満人之ヲ非トスルモ 或ハ一人ノ諒トスルモノアランカト一筆残シ候

 貴官希クハ 自重以テ皇国護持ノ大任ヲ盡サレヨ 悲シイカナ 昭和二十年八月十五日 抑モ如何ナル日ゾ 噫』

(原文のまま)

 建依別(たけよりわけ)(土佐)出身の蛟竜艇長畠中大尉はわら半紙に鉛筆でこう書き残して、8月17日佐伯湾を出港。翌朝0850大隈半島の沖で自らの命を絶った。

 さらに同じ日、0300、回天隊員橋口大尉は出撃準備の整った平生基地回天の傍らで純白の軍装を己が熱血で彩った。そして、彼は次の遺書を残していた。

 『新事態は遂に御聖断に決裁せられしを知る。即ち臣民の国体護持遂に足りず、御聖慮の下神州を終焉せしむるの止むを得ざるに到る。神州は吾人の努め足らざるの故に、その国体は永遠に失われたり。  今臣道臣節いかん。国体に徴すれば論議の余地なし。一億相率いて吾人の努め足らざりしが故に、吾人の代において神州の国体を擁護し得ず終焉せしむるに到りし罪を、聖上陛下の御前に、皇祖皇宗の御前に謝し、責を執らざるべからず。

 今日臣道明々白々たり。然りといえども、顧みれば唯残念の一語につく。護持の大道にさきがけし、先輩期友を思えば、ああ吾人のつとめ足らざりしの故に、神州の国体は再び帰らず。

 君が代の唯君が代のさきくませと

  祈り嘆きて生きにしものを

 噫、又さきがけし期友に申し訳なし。

  神州ついに護持し得ず。

 後れても、後れても亦卿達に 

  誓ひしことば忘れめや

 石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井』

    (遺書 原文のまま)

  現在員257名、ナニクソで頑張る    (昭和62年4月)

 戦争が終わった時のクラスの平均年齢は数え年で23歳に過ぎなかった。従って、戦後に生き延びた290名の約4分の1が大学に進学した。

 主な大学は東京17、九州8、京都8、大阪6、北海道4、東北4、一橋3、慶応7、早稲田3、明治3名。

 一方、戦後も自衛隊に入って、直接国防の任に当たったものは78名(陸上7名、海上64名、航空7名)であり、大学進学者とほぼ同数である。

 クラスの過半数を失って、戦禍はやんだが、戦後42年の間に櫛(くし)の歯が欠けるように33名が鬼籍に入った。

 (平成201231日現在、戦後63年、この間鬼籍に入った者141名)

 毎年6月に行われる國神社での慰霊祭、12月の年末クラス会、さらに3月15日の任官、9月15日の卒業の日を記念して行われるゴルフ会、また、年2回発行されるクラス会誌誌上で、お互いの健康を気にする会話や投稿が目立ってきたのも当然のことであろう。

 されど、72期残存現在員149名(平成201231現在)意気ますます旺盛、ナニクソで頑張りつつあり。