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昭和43年11月23日実施

第四回靖國神社参拝期会報告

大谷友之・澤本倫生・池田武邦・深尾秀文

◎ 受付   大谷 友之

「あとは天気だけだぁ」と小学生のように明日の天気を気にしながら、さっきまで手分けして案内プリントと名札を詰めた封筒の束を包んだ風呂敷包を大事そうに抱えた国生・小灘とラッシュを過ぎた東京駅を分れて帰宅すると加藤から電話があった。

「市ヶ谷の止まり客もお元気。今日は一杯やってすぐ寝るよ。天気だけだな。貴様も早く寝ろ。」

天気、天気、どうか明日は晴れてくれ、」テレビの天気予報もよさそうだ。早く寝ようと思いながらなかなか寝付かれない22日の夜だった。

昭和431123

世話役一同の精進よろしき為か、あるいは我々の神妙な態度を天も賀し給うたためか、暖かな快晴に恵まれた。

これで第一の心配ごとは切り抜けた。

靖國神社の段取りも慣れて来たためか、受付もリラックス。店開きをすませぬうちに生存者の元気な姿が見え始めた。

「おい貴様、年会費まだだな。今日の会費と一緒に頼むぞ。」

「ああそうか、すまん すまん」

生存者の受付順調。心配した混雑もない。

 年会費の集金状況が気になるのか加藤ニュース編集長が、時々覗きに来る。

暫くしてから「先輩、申し訳ありませんが、テーブルを譲って下さい。」と我々の次に慰霊祭を行う甲飛十期の連中から慇懃な申し入れ。

よく見れば、甲飛十期慰霊祭の立看板の横で、此方が受付をやっていた。恐縮しながら、受付テーブルを半分譲り、大慌てで当会の立看板を出す始末。リラックスが過ぎたようだ。

「俺の配置は足らざる所を補っていく事のみ」、と一番難しい担当を引き受けた辻岡提督、手持ち不足でいたところ、ボツボツご遺族も来られ、そのうちにご遺族の取次、伝令など、約束通り足らざるところを補って呉れた。

リラックスで行こうという世話人の気持は会員、御遺族もおなじであったようで定刻になっても申込全員が揃わなかったが、受付を残して、拝殿に参進、昇殿参拝に移った。

(当日高崎戦に事故あり、また、新幹線も延着した由。それでも大部分の方は昇殿参拝に間にあった。)

◎  昇殿参拝   池田 武邦

1123日、天気は快晴、風もなく穏やかな秋空に恵まれた朝を迎え、靖國神社の境内は、これから亡き戦友の霊を慰めるという我々の心のせいか、或いは休日という環境のせいか、なにかしみじみと平和を感じさせるものがあった。

午前8時半頃から集まり始めた関係者は、生存者120名、御遺族144名、計275名に及んだ。

10時に拝殿にて、神官の修祓の後、消防庁音楽隊の厳かな吹奏楽の中を3組に分かれて本殿に登り参拝する。

戦場に散った我が子、兄、弟を思うご遺族の胸に、20余年の歳月はあとかたもなく消え、存命中の姿が様々によみかえり、心を動かしておられる様子が、クラスメートである我々にはよく推察出来る想いであった。

昇殿参拝を終え、ご神酒を頂いた後、懇親会場に行く連絡バスを待つ間、戸外での音楽隊の吹奏を聞きながら、しばしご遺族や生存者間同志の旧交をあたためる。

その中で、おやじより背丈の高くハンサムな息子を連れて来た伊吹と渡邉をみて、改めて20余年の歳月を目の当たりに見る想いであったが、我々が兵学校生徒から中少尉時代の年齢とほぼ同じ年頃の息子さん達を見て、この年齢で戦死していった友の姿を思い、息子を失った親の気持を実感して、かみしみた者も何名かいたのではあるまいか。

音楽隊の吹奏が終った時、タイミング良く防衛庁の好意により借用の連絡バスが第1回の輸送を終って靖國神社に帰って来た。ご遺族にこのバスをご利用いただき、生存者は、適宜な便で懇親会場(防衛庁食堂)へ向かった。

◎ 懇親会   深尾 秀文

突然司会を指名され、いささか当惑したが、平素何もやっていない者として、当然の義務と考え、快くお受けしたものの、不慣れと心臓が弱いため顧みて極めて不行き届きで、皆さんにご迷惑をかけたことを深くお詫びしたい。

以下、懇親会の経過を簡単に報告します。

懇親会場が防衛庁の食堂に決定されて以来、幹事諸兄及び水野を始めとする海幕の自衛官の面々が、それぞれ総括、献立、会場整備、靖國神社からの輸送手配、庁内交通案内等を分担し3回に亘る事前打ち合わせを行い、前日は海幕のクラス手空き総員で久し振りで自ら掃除、机の配置換え、軍艦旗の飾り付け、マイクの準備等をして万全を期した。

いよいよ当日、予定よりやや早めに1100頃バス第1便到着、1140頃までには殆ど全員が揃ったが、靖國神社から防衛庁まで約4キロの保健行軍をされている紺野元経理学校校長以下経理学校の3教官が到着されない。ひやひやしているうちに定刻5分前正門を通過されたとの報に安堵の胸をなでおろし、予定通り12時開会の運びとなった。

予めの打ち合せにより、今回は文字どおりご遺族を交えたクラスの懇談の会とし、一切の固苦しいあいさつ等は避け、会次第を予定することも止めた。

小生の開会の辞のあと総務幹事の澤本倫生から、本会開催の趣旨経緯について別掲のような報告があった。

続いて上田(機)の音頭によって乾杯を行った後、直ちに懇談に入ったが、これと同時に上田のご尽力にかかる文化女子大マンドリンクラブのお嬢さん方約30名による演奏が始まった。クリーム色のワンピースに制服に身を包んで清楚な感じで、特別にレバトリーに入れて貰った各学校の校歌等約1時間に亘って興を添えて貰った。

懇談の途中草鹿兵学校、鍋島機関学校両校長から戦没者の功を讃えると共に、現在の世相を憂え生存者は幾多戦死者の心を心として、なお頑張って欲しい、という趣旨の力強い激励のお言葉を頂戴し、紺野元経理学校長からは、「なにわ会慰霊祭」という自作の詩を吟詠して頂いた。

3校長とも誠に元気矍鑠としておられ国を憂い、後輩を愛されるお気持にはただ頭が下がる思いであった。

このほか、田中、石隈両教官からも往時を偲び健闘を祈る旨のお話があり、会は和やかな雰囲気の内に進んでいった。

暫くして故清水君の甥に当たる清水徹君の飛び入りで「同期の桜」の独唱が始まったが、これには期せずして総員が拍手合唱になって会は一段と盛り上がった。

会の半ばで澤本によって本会開催の発端となった上田(機)の企画とクラス名簿作成に献身的な努力を惜しまなかった大谷の紹介が行われた。

興なお高まり、そこかしこで当時のアルバムを中心にご遺族と共に思い出を語り合う姿が見られ、積もる話に花が咲いたが、1400頃には料理アルコールとも漸く行き渡った感じで、二,三所要の方もあるやに見受けられたため予定を早めることにした

1410軍歌係高崎のリードで「艦艇勤務」と「軍艦」を一同で斉唱した後、黒沢明監督による映画「トラ トラ トラ」に特別出演する次の諸兄のユーモラスな自己紹介があった。

泉  五郎(加賀 艦長)

茂木  允(草鹿参謀長)

福島  弘(艦隊機関長)

和田 恭三(艦隊主計長)

鈴木  脩(長門 艦長  当日欠席)

満場爆笑のうちにも熱烈な声援が送られ一同成功を祈った。かくて和気藹々の裡名残を惜しんで閉会となった。

終ってご遺族を東京案内に連れ出すグループ、二次会に向かうもの、別室で教官をかこんで更に懇談するグループなだ、久し振りの全国的な会合からなかなか去りやらぬ姿が見受けられる一方、当初の分担に従い会場の復旧作業を行い1600無事滞りなく終了解散した。

なお当日札幌在住の村山(機)から電報を受け取ったので披露します。

『アリシヒノユウシヲシノビゴエイレイノメイフクヲイノルトトモニゴゴイゾクケンコウヲイノリマス』

◎ あとがき  大谷 友之

今流行のハプニングな面もあったが好天気に恵まれ何とか恰好がついた。

樋口の外遊中のピンチヒッターとして、気軽に引き受けた名簿整理が、クラス会までに間に合わせろという至上命令に変わり、そのままクラス会の世話役の一員に名を連ねる羽目となり、主として澤本のアシスタントをやった関係もあり、次回よりの円滑な運営の為一言お願い。

1 返事は必ずだすこと。

2 返信用紙で出すこと。

3変更は必ず事前に世話役へ。

 

なお、次回世話役代表は山根が快く引き受けてくれた。

◎ 靖國神社参拝期会挨拶

澤本 倫生

皆様本日は遠路はるばるご参集下さいまして有り難うございました。

戦後既に23年経ちまして、世の中はすっかり変わりました。それに伴い、当時まだ少年の面影を残しておりました我々同期生もすっかり変わり、あるいは完全白髪の者もあり、あるいは光頭の者もあり、中には、既に当時の我々と同じ歳の子持つ者すら居ります・外観は変わり、職場は千差万別となりましたが、良かりし海軍時代を懐かしむ心は変わりなく、年に数回は期会を開いて旧交を温め、それを心の糧として過しております。

我々が、同期戦没者の23回忌として、合同慰霊祭を行ないましてからも2年経ちました。あの時の感激は、まだ皆様の心に新たなものがあると信じます。あの日、何人かのご遺族の方から「このような期会を毎年実施して貰えないか」とのご希望がございました。また、我々生存者と致しましても、靖國神社社頭で、御遺族を交えて『貴様等の分まで働くぞ!』と誓いを新たにすることは、極めて有意義なことであります。

そこで、「とても23回忌の時程立派には出来ないが、毎年6月と12月とにやっている、クラス会のうち、一方を靖國神社参拝クラス会とし、ご遺族のうち、ご希望の方にも参加願って、懇談の時を持とうではないか!」という意見が自然発生的に、クラス会幹事の間に湧いて来たのであります。

偶々、海軍機関学校53期の幹事の方でこれまで連絡の取れなかったご遺族とも全部連絡がついたので、11月23日にもう一度慰霊祭を行う準備をしていました。それで、両者を合併して『靖國神社参拝クラス会』を行う事にした次第であります。

このクラス会は、今後とも続けなければ意味がありません。その為には、「余り派手にすると、次の年がやり難くなる」と言う者もありまして、23回忌の時のようにご遺族の方々のお世話も充分出来ず、申し訳ないと存じます。我々と致しましては、これからは、クラスメンバーと同じお気持でご参加願いたいと考えております。この点何とぞご諒承賜わりたいと存じます。

来年から続けますこのクラス会は、12月より暖かい61日を定例の日と致したいと存じます。この61日というのは、我々が最終階級となった海軍大尉進級の日であります。我々の記念すべき日は、海軍兵学校入校の121日、少尉任官の315日、今申し上げた61日、と卒業の915日という具合に丁度約3カ月おきに回って来ます。それを夫々クラス会懇親の日と定めた訳であります。クラス会を予め決めた日にしておくと、各自が前もって、その日を行動予定に組みこんでおき、成るべく参加して頂きたいからであります。

さて、ここで生存者各位に、クラ会幹事のことについて一言申し上げます。我々なにわ会、戦後大阪に発生し、全国的に発展した親睦団体であります。この本部といいますか、関東地区では樋口 直、渋谷信也という名幹事を得まして、殆どご両人中心に動いて来ました。勿論その間にも、バイパスニュースは加藤、品川、押本、北村、高杉を中心とした昭南地区の者がこれに当たり、名簿は大谷が実務をやってくれます。また、生存者の健康と懇親の為のゴルフ会は、泉を中心とした千葉地区の者が世話をやいてくれます。然し、定例クラス会は従来殆ど樋口、渋谷の両君に頼って来たのであります。今後61日に靖國神社参拝期会を毎年やることになれば、準備その他雑用だけでも種々人手が入ります。それで、これからは、樋口、渋谷の両君には、御苦労でも、万年幹事としてお世話を願うのですが、東京地区在住の者が、適宜グループを組んで、クラス会の雑用を担当していくようにしたいと思います。

本年は樋口が南北米州から欧州まで旅行しすて留守をしました間、代役を果たしましたのと、名簿幹事の大谷が近くに勤務している関係から丸の内グループで幹事をやらせて頂きました。また会場の関係から自衛隊諸兄にも多大のご協力を頂きました。幹事代表として、ご報告する共に感謝いたします。

来年の幹事については、まだ誰とも相談しておりませんが、私個人としては、本日は社用が急に出来て欠席しておりますが、山根を中心に世話役をやって貰らえれば有り難いと思っています。

渋谷及び自衛隊の諸兄のご尽力により、会食の準備もできておりますので、どうかごゆっくりご歓談下さい。

(第2会場 防衛庁食堂にて)

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