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昭和45年 6 7日実施

第五回参拝クラス会の記

名村 英俊

靖國神社参拝クラス会も3回を数え、6月の第1日曜日は、我々の生活の節として定着した感が強い。

事前の準備やお膳立ても前任者各位の努力が実って、総て前艦の航跡を進ことでOK。それに黙って集まれば自然と秩序出来て歯車が円滑に周り始めるのも、帝国海軍の伝統というものか。とにかく曲がりなりにも幹事の大役を了することが出来て、改めて関係者各位のご協力に対して謝意を表する次第である。

さて、67日は入梅前の快晴に恵まれた。懇親会場が原宿の東郷記念館で、九段から少々離れていたため、多人数のことではあるし、輸送の事が一番懸念されたが、このように天候が幸いしたこと、阿部幹事の尽力で防衛庁のバスが借用出来たことによって、それも解決出来たことは有り難かった。また、当日は、万博会場と東京霞が関ビルを結んでの二元放送によるテレビクラス会に、我がクラスが出席することになり、関西方面の期友を万博会場に足止めするという二面作戦を余儀なくされたので、幾分の混乱を覚悟していたが、結局  教官 3名、ご遺族81家族118名、生存者92

(氏名掲載略)

の参列を得て、昨年に引き続き盛況裡にクラス会を終了することが出来た。以下順を追って略記し当日の報告に換える。

◎ 靖國神社昇殿参拝

9時半受付開始衛兵整列としたが、しばらくは手持ちご無沙汰で待機。10時頃から三々五々参列者が到着。会費の集金やら、名札の手渡しやら、久闊を叙すやらで、一時混雑すること例年のとおりである。

10時半には殆どの参列者が揃い、参集殿で休憩、昇殿を待つ。

午前11時半(11時の誤りと思う)の定刻になり一同拝殿に参入。型どおりの神事のあと、草鹿校長、8名のご遺族代表、それに神戸から駆けつけた久米川が生存者の代表として玉串を奉奠。続いて一同昇殿、参拝を終る。堅い拝殿の床に座り、神官の祝詞に粛然と聞いている時、折からの陽光に、社前の樟の緑と白砂が映えて痛いほど目にしみた。30年の歳月をえて、先に逝きたるもの、なお存する者、今なお一つであるの感慨を等しくする一瞬であった。

◎ 懇親会

たとえ限られた予算であっても、折角遠路参列される方も多いので、出来るだけ趣向を凝らしたものでありたいと念願して、今年は立食スタイルを取り入れ、移動懇談の便宜を図ったつもりだったが、果たして校歌はどうであったか。例によって設営一切については渋谷の専門的アドバイスを煩わした。映写会を含む演出は押本に負うところ大であった。

懇親会は定刻12時半から、東郷記念館四階大広間で開催された。まず名村の開会の挨拶と本年度幹事の紹介に続き、伴の音頭で各位の健康を祝し乾杯の後、会は懇談に入る。ご遺族の中に、亡き友の面影を見出すこと多きにつけ、話題は往時のそれに移って行くことは自然のなりゆき、それにしても我々自身がその年頃の子どもを持つ年代に到達していることに今さらの感慨を深くした次第である。

えん半ばにして、草鹿校長、村岡、柳田両教官の訓示を頂く。歳月を超えて、教える人と学ぶ人の郢ォがりは続く。ご遺族を代表して、マニラで散った土井輝章君のご父君から懇篤なご挨拶を賜わり感謝に堪えない。澤本倫生から水交会理事交替の挨拶と入会勧誘があった。

映写会は押本が関係先に顔を利かせて、NHKから足立英夫主演「現在の映像ー我が青春」、12チャンネルからは「海軍兵学校」を集めて上映。それに真継不二夫先生提供の江田島生活の懐かしいスナップの数々を展示、懇親会のアクセントとして好評であった。

宴ようやく果てとして、例によって例のごとく、軍歌係高崎のリードによる軍艦マーチの合唱、何時までも衰えない我らのプリマである

かくて定刻3時になり、名残尽きないまま、来年の再会を期して散会した。

終りに当たって、幹事微力の為不行届きの点のみ多かったこととお詫びすると共に各位一層のご健康とご発展をお祈り申し上げる次第です。

草鹿校長訓示

1 年一回の参拝クラス会は誠に有意義なり。

2 世情騒然たる現在こそ、「サイレントネービー」の意義に徹すべし。

3 節制に努め、戦死者の分まで生きてご奉公せよ。私は150歳まで生きるつもり。