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昭和47年 6 4日実施

第七回参拝クラス会の記

後藤 俊夫

今年も6 4日(第一日曜)に恒例の靖國神社参拝期会が行われた。

当日は当番幹事の日頃の品行方正にも拘わらずあいにくの雨天となり、しかも雨足が相当強くご遺族のお年寄りは大変だなあと思いつつ受付1時間前の9時半に社務所前に着いたら前任幹事後藤英一郎が既に来ていた。共に悪天候を嘆いていたら、御遺族らしいご夫妻が見えられ、岩佐肇(経)の母出すと挨拶され恐縮すると同時に、雨にも負けずしかも早々と見えるご遺族のご心情が偲ばれ、やらなければ、続けなければと参拝期会の意義を改めて感じた次第である。

出足は少々遅れたが、午前11時前には出席予定者大半参集し、結局出席者は、草鹿校長、ご遺族99名、生存者103名,合計203名となった。(氏名掲載略)

11時過ぎ、昇殿、神事が取り行われたあと、小生の拙い祭文奉読あり、次いで草鹿校長以下、ご遺族代表粕谷(父)、島本(父)、出宮(父)、橋口()、広瀬(父)村田(母)、都所(兄)、岩佐(母)、生存者代表澤本倫生の玉串奉奠と進み、何時ものように黙祷に入り、父母として、兄弟故姉妹として、級友として過ぎし30年の語らいがまさに続く。終って少なくとも宮社にいる間はけがれ多い世相を離れて身も心も清めたい。そのような心境でご神酒・お供物を頂き、英霊に来年の再会を期して、雨の中、懇親会場九段会館へ三々五々向かった。

12時半九段会館三階大広間において村山幹事の手なれた名司会により懇親会が始まった。

まず、山田穣幹事の挨拶、彼独特の字解説から始まる名調子で銘酒オールオパーの解説の後、ミスターバーに負けないご遺族・ご両親の長寿を祈り、その代表としてお元気な草鹿校長へこれを献上に及んだ。

安藤の音頭で乾杯の後、暫く会食懇談し、次いで草鹿校長の御挨拶を承った。校長は高齢に拘わらず、毎年我々のなにわ会に出席頂いているが、今年は酒を断たれたご様子だが至ってお元気「俺はまだまだ若い、これからも世直しに努力する。」とお力強いお言葉。そして何時も言われる「戦死者諸君、ご遺族にスマヌ アヤマル」の素朴なお言葉に、ジンと来るものがあり、場内シーンとなる。

ついで、ニュース編集長加藤が「慰霊祭の歩み」と題した彼及びニューススタッフが永年丹精込めて撮影したネガをアレンジしたスライドの映写を行った。最近のスナップから昔へとだんだん年代がさかのぼって行く度に、亡くなられたご遺族の方々・期友等が現れ非常に懐かしく、加藤の軽妙な解説につれて、10年、20年前は俺も若かったなあとか、俺の頭に髪があったのか、俺の髭も立派だったと皆感無量の面持ちであった。締めくくりとして20年間の第1回慰霊祭の映写中に樋口が当時の祭文を朗読し、あの頃のまだ若い決意のほどが伝わって来る感があった。後で聞くところによるといスライドのコピー申込が大分あったようである。

村山幹事より来年の参拝期会(63)・江田島期会等連絡事項の説明が行われた。

次いで遺族代表として橋口のご尊父よりご挨拶を頂いた。カクシャクとしてお声も若々しく「三校の精神は今も生存者の体内に脈打っている。今後これを発揚して世に尽して欲しい」とのお言葉、我々生存者としては面映ゆい汗顔するよりも大いにハッパをかけられたと発奮すべき所であろう。

懇親会終了時間も間近となり、例の如く軍歌を椎野軍歌係指揮により合唱し、樋口の音頭で万歳三唱、無事終了と相成った。

雨の中、高齢を押してしかも遠隔の地よりお集まり頂いたご遺族の方々、そして叔父の霊に一目詣でたいという若いお嬢さん、これ等のお気持を察しても毎年慰霊祭を行うべきだなあとつくづく感じた次第である。 

草鹿校長の毎年のご参加に感謝致します。そして、何時も出来得る限り都合をつけて参加して下さるご遺族並びに生存者のお陰で今年も大過なく参拝クラス会を終えることが出来ましたとお礼申し上げます。それから、加藤ほか常任幹事、前年度幹事等心からのご協力有り難うございました。

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