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五、アッツ島沖海戦

三浦 憲太郎

昭和十八年三月第五艦隊(那智、摩耶、多摩駆逐艦六隻)は千島列島北端の占守海峡を根拠地としてアリューシャン方面作戦に従事中であった。アッツ島は山崎守備隊長のもとにキスカ島守備隊と共にアリューシャン群島の守備に任じつつあった。米軍の海空軍の勢力は次第に増強されアッツ島の海上よりする補給は日増しに困難となって来たので五艦隊司令部は輸送船団を強行護衛によりアッツ島に護送する作戦計画を立て同年三月二十六日、五艦隊は高速船団五隻と共に占守海峡を出港し北方に針路をとった。この船団の中一隻は速力が遅かったので海防艦一隻を護衛につけて前日中にアッツ島西方海面の会合点に先行せしめられた。

艦隊は旗艦那智を先頭に単縦陣となり船団を後方に従えて進行した。当時私は五艦隊の航空参謀であり、その日は丁度明け直の当直勤務中であった。見張の信号兵から「北方にマストが見えます」と言う報告を受け取った。発見時の地点から判断してこれは前日先行させた我が方の輸送船に違いないと思ったので、その旨司令長官に報告に行った。再び艦橋に戻って来ると見張員から「マストが次第に数を増して来ます」とあわただしい報告に接したので双眼鏡で更に確めるとそれは味方の船ではなくアメリカの艦隊で反航対勢で南下中であることが判った。

 長官は直ちに艦隊に戦斗準備を急ぎ、後続の船団は非戦側の東北方海面に避退した。米艦隊はアメリカ第五艦隊で重巡一隻、軽巡二隻、駆逐艦四隻で重巡を先頭に左舷側を南下して来た。彼我の距離は急速に接近して来た。「左魚雷戦」「左砲戦」等と矢つき早に発令されまた、那智と摩耶の搭載機も「全機発艦」を発令された。まず全艦隊の魚雷を全部発射し続いて砲戦が開始された。搭載機は砲戦のため発艦が間に合わず辛じて二番艦摩耶の一機のみが射出発艦に成功した。先に発射した魚雷は一発も命中せず砲戦も反航対勢のため両軍とも被害を与えるに到らなかった。我が方はアメリカ艦隊の退路を遮断する対勢をとりつつ攻撃を続行した。アメリカ艦隊の射撃は常に我が方の旗艦に全弾を集中して来た。赤、青、黄色の着色弾が艦の周囲に落下して大きな水柱が何本も立った。艦橋はそのしぶきをかぶり艦橋におるものは長官以下皆帽子や顔が色に染って異様な格好になってしまった。十五糎砲弾が一発艦橋後部の作戦室に命中したので、その周囲にいた信号兵が多数倒れ悲惨な光景を呈した。また、敵の駆逐艦は榴散弾を正確な弾着で艦上に打ち込んで来たので上甲板の戦斗員が多数被害を受けた。敵側は駆逐艦に煙幕を張らせ、避弾運動を続け乍ら離脱を計らんとした。私が方は上空にある水上偵察機の弾着観測を利用し、これを急迫しながら砲戦を続行したが、敵側の有効な煙幕に妨害されて致命傷を与えることが出来なかった。かくして戦斗は延々四時間に亘り、燃料爆薬も底をつき始めまた、情報に依り敵側の空軍部隊の来援の懸念もあったので砲戦を止め、針路を西にとり海上戦斗は終了した。

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