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四、第五艦隊の北方作戦

久住 忠男

(一)開戦まで

私が新設の五艦隊参謀を任命されたのは昭和十六年七月下旬だった。

それまでは第二艦隊の新鋭第八戦隊(利根、筑摩)にいて夜戦訓練に明け暮れていあたのが、いきなり多摩、木曾という旧式艦が主力の第五艦隊へやられたのでがっかりした。しかし、これも露語選科という私のマークのせいでやむをえないこととおもった。艦隊は舞鶴湾外の由良沖で勢揃いした。最初の編制は多摩、木曾の第二十一戦隊と水上機母艦の君川丸だった。猛訓練をつづけながら通信参謀兼航海参謀としての私は多忙をきわめた。この艦隊は、「関特演」に関連して対ソ作戦のため編制されたものだった。しかし、八月下旬になって、大本営は対ソ警戒配備を解いたので、第五艦隊も新し任務につくことになり日本海から太平洋に出た。

九月十日から四日間、海軍大学校で連合艦隊の特別図上演習なるものが開かれたが、私も他の幕僚とともに大湊からこれに派遣された。この図上演習は対米開戦となった時の連合艦隊の作戦を研究するという重要な意味をもったものであった。私たち第五艦隊も、扉を閉じた特別室に入れられた。この室で展開されたのが、真珠湾奇襲の図上演習であった。この演習の経過と意義については戦後書かれた内外の戦史に詳述されている。これまで私が参加したどの図上演習とも違って、山本連合艦隊司令長官や、南雲第一航空艦隊長官が緊張した顔をして演習の進展を見守っていたのをいまもよく記憶している。

 一回目の演習では空母群が西北方からハワイに進入するコースをとり、結局はハワイ基地からの米軍機の反撃で空母の一部か撃沈されるという結果となった。二回目には十二月八日の実戦に使われたようなコースで進入して奇襲に成功したという判決が下された。

この図上演習に参加した私はそれまでそんなに深刻に考えてなかった対米戦争がすぐそこに追ってきていることを強く感じた。この時この作戦が山本長官の発案によるものであることを聞かされた。対米開戦ということになれば、どうしてもこの種の奇襲戦略が必要なのだろうと思った。十月から十一月にかけて小笠原諸島、硫黄島方面の巡航から帰えった直後、長官のお伴で岩国航空隊に派遣された。ここでは山本長官統裁の下に連合艦隊の各艦隊長官などの幹部が集り、開戦前としては、最後の図上演習と作戦打合せが行なわれた。

このときはハワイを攻撃する空母機動部隊の作戦計画はもう決定していたが、その部隊と特殊潜航艇との攻撃開始時刻の調整が重要な研究課題の一つであったと記憶している。また、この集りには南方軍総司令官寺内元帥の一行も参加していたが、真珠湾奇襲とマレー半島上陸作戦開始との時間的な調整も行なわれた。

会議が終って海軍側は航空隊の玄関で記念撮影をした。この時の写真は戦後つくられたいろいろな写真集に出ているが、参謀としては最若手であった私もその最後列から顔を出しており、その原版はいまもわが家に大事に保存されている。ここで開戦以後使われる連合艦隊作戦命令を受けとった。第五艦隊全部に配付するものであったので、ひとかかえもあるほど大量のものだった。その作戦命令の中で真珠湾攻撃に関する部分は艦隊司令部宛のものにはあったが、

その他のものには全部切りとられていた。横須賀に碇泊中の多摩までこの最高の機密を一人で持って帰らねばならなくなった私は、岩国の呉服屋に行って白敷布を買い、背広姿にこれをかついで二等寝台に乗り込んだ。

(ニ)北太平洋の哨戒

有名な、「新高山登れ一ニ〇八」(十二月入日開戦と決定という意味)の隠語電報を受信したのは十二月二日の夜半に近かった。艦隊は厚岸湾碇泊中だった。私はすぐ自分で長官の寝室へ報告に行った。

ベッドから半身を起こしてこの電報を読む長官の手がかすかに震えた。私自身も心ひそかに日米交渉が好転して戦争にならねばよいがと念じていたが、いよいよ開戦ときまるとやはり気持がピンと張りつめる思いだった。

機動部隊の側方とハワイからの帰途を間接的に護衛する任務を帯びていた第五艦隊は直ちに出港して北千島方面に向った。ちょうど蓮の葉のように海面を蔽っている浮水の間を進むと左手には白い千島の山々があざやかにみえる。前甲板には氷の花が咲いた。カムチャッカ警備でおなじみの海域ではあったが冬の千島は身がひきしまる思いであった。開戦の前日、幌莚海峡の柏原湾に碇泊していた艦隊各艦は舷側に白い迷彩を施しており海岸まで真白くなった幌莚、占守の山と見分けがつかないようになっていた。解氷はギラギラと輝やき水平線の方までつながっていた。

その夜、東南方にむけて出港した艦隊は、しばらくカムチャッカ南方海域を哨戒していたが機動部隊主力の帰投航路の前方に出るような針路をとった。多摩の艦橋の下に設けられた狭い作戦室で、真珠湾奇襲の成功を祝って、ブドウ酒で乾杯をしたときたまたま日本のラジオが軍艦マーチを演奏していた。冬の北太平伴は連日ひどいシケつづきだった。十二月十二日か十三日であったと思うが、機動部隊の輪形陣の先頭にいる艦のマストが見えた。信号用探照灯で

ハワイ奇襲作戦の輝やかしい成功を祝すといった信号を南雲長官宛に送った後、第五艦隊は針路を西に転じた。

これから数日間機動部隊の前路の警戒をした後大湊に入った。連日シケの中を西進したので多摩は後部発射管室の舷側に大きな亀裂ができているのを発見した。たゞちに入渠、修理のため横須賀に回航した。

次に第五艦隊に与えられた命令は、東経一五五度線上(犬吠岬東方七〇〇カイリ)に監視艇をならべて日本本土に迫る米艦隊を早期に発見するというものであった。この哨戒線は大鳥島(ウエーキ島)と幌筵造島武蔵基地から飛出す中攻の哨戒圏のギャップを埋めるためのものであった。最初百五十トン級のカツオ、マグロ船約ニ十五隻で編成された第一特別監視艇隊は固有の漁船員に二、三人の海軍軍人をのせただけであったが実に立派にその任務を果たした。昭和十七年三月のことであったと記憶しているが、監視艇第五エビス丸が哨戒線で敵の浮上潜水艦からの銃撃を受けたとき、捨身の衝突戦法に出た。敵潜はあわてて潜航していったが、そのとき年老いた同船の船長は銃弾をうけて戦死した。その話をきいて私は出航前横須賀であったときの、その船長のエビス顔がわすれられなくなった。

この監視艇隊で最大の功績をあげたのは四月十八日に東京空襲をした空母ホーネットを最初に発見して立派に報告した第二十三南進丸であろう。この船は報告直後米艦からの砲撃を受けて沈没した。私の知っている限り一人の生存者もいない。当時の戦略常識では、空母機は攻撃しようとする目標から二百カイリ以内に接近しなければならないことになっていたので、七百カイリもある哨戒線上で発見したので、われわれとしてはこれを迎撃するのに充分な時間的余裕があると考えた。第五艦隊(その頃旗艦は重巡那智に変っていた)は同日夜戦をもってこの敵を撃滅しようとして北海道の室蘭から行動を起した。また南方からは五航戦の空母群がこれを追撃する態勢をとった。ところが同日正午過ぎ東京湾方面に米大型機の空襲があったという通報を聞いて不思議に思った。早朝に発見した空母の位置からみてそんなに早く空母積載機が東京附近を空襲できるはずがない。しかも大型機というのであるから不思議である。あるいは南洋群鳥の一部利用した飛行艇群の空襲かもしれないなどと想像した。われわれがこの空襲を不思議がるのも当時としては無理もないことであった。後でわかったことだがホーネットにはドゥリットル将軍の創意にもとづく陸軍双発爆撃機B25がつみこまれ着艦帰投を考えない攻撃発進をしたのである。しかしホーネットは予期しないところで日本側の監視艇に発見されたため、予定よりもはやくこの爆撃機隊を発進させねばならなかった。そのためB25の大部分は予定された中国奥地の飛行場に到着できずに日本軍の占領地域内に不時着する結果になった。第二十三南進丸の名はドゥリットルの奇襲作戦を語るときには是非思い出してもらいたいと思う。

私は四月下旬、また、連合艦隊の図上演習に長官、首席参謀らとともに出席した。図演は桂島水道(広島湾)在拍中の旗艦の大和の前甲板で行なわれた。まず第一段作戦の研究会が行なわれたが、インド洋で英艦隊を撃破して帰ったばかりの第一航空戦隊の鼻亀は大変なものであった。「空母機にかかっては重巡など一撃で沈みます

(三)大和艦上の図演アリューシャン攻略作戦は、私の第五艦隊勤務中もっとも重要なものであった。第五艦隊の主要な作戦任務は北太平洋を通って日本本土に迫る米艦隊とくに空母群をなるべく早く捕捉することであった。この目的を達成するためには、航空機による哨戒基地を前進させねばならな。その基地としては二式大艇の基地になるキスカ島が最適だということになった。この意味で第五艦隊司令部からは早くからアリューシャン西半部の攻略の必要を連合艦隊司令部に進言していた。これが連合艦隊の第二段作戦の一部として実施されることになったわけである。

よ。空母のいない第五艦隊なんかこれからは問題にな少ませんなァ」と私はおどかされた。しかし研究会では、空母戦隊がセレベス島のスターリング湾警戒碇泊中に舷窓を明け放し、灯火管制もせず、他の艦隊からの警告をあざ笑って受けつけなかったということが問題になった。空母部隊は戦功に酔って驕慢になっているのではないかとみる人が少なくなかった。第一機動部隊の草鹿参謀長は、「空母部隊はきわめて鋭い切れ味をもっているが、その反面、きわめて脆い反面をもっている。注意せねばならない。」と大きな声でのべたのが印象的だった。

図演はもちろん、ミソウェイ攻略が焦点であった。この図演ではアメリカの空母部隊は、わが潜水艦の哨戒線で発見され、わが空母群からの攻撃があったので攻略作戦はかろうじて放功することになったと記憶している。

しかし実さいの場面では潜水艦は哨戒には役に立たずわが空母群が空母機に奇襲されることになった。

桂島水道から第五艦隊の泊地厚岸湾に帰ったとき、艦隊はすでに出港しており、一隻の駆逐艦がわれわれを待っていた。択捉島の南方でやっと那智に移乗したが、そのとき珊瑚海海戦というはじめての空母対空母の海戦があったことを聞かされた。この出動は君川丸の水上機が、攻略作戦の準備としてキスカとアッツを偵察するのを支援するためのものだった。カムチャッカの東方海面まで進出した。

第五艦隊には二月にすでに重巡那智が旗艦として増勢されていたがつづいて第一水雷戦隊、第二十二戦隊などが加わり、アリューシャン作戦には戦隊航空第四龍驤、隼鷹と重巡高雄、摩耶を中心にした図演が終ると各艦隊幹部はミドウェイ作戦へ出動のため散って行った。山本連合艦隊長官はこれらの幹部が大和から退出するのを当直将校がするように舷門に立って一人一人見送っておられた。私たちの乗った内火艇が舷梯から離れるのを舷側に出てぢっと見守っておられるのをみて私たちはもう一度艇上から敬礼をした。高い舷側から見下ろされている山本長官のゆたかなあごと、大きな眼は、威厳にみちて私たちによびかける何か強いものを持っていた。この図演中、私たちは軍艦山城に宿泊していた。第二航空戦隊司令官の山口多聞少将も一緒だった。今度の作戦には空母対空母の海戦がおきることを覚悟せねばならぬと繰りかえしくりかえし話しておられた。演習が終って呉から東京行の列車に乗ったとき、山口少

将も同じ車輌だった。列車が神戸についたとき、背広の上に海軍制式の雨着をきた山口少将が降りて行かれた。細萱五艦隊長官が声をかけると「ちょっと湊川神社へ」と言葉をのこしてホームに消えてゆかれた。

その一ヵ月後、ミドウェイ沖で最後まで第二航空戦隊飛竜が奮戦しているのを電報でみて、私は神戸で列車から降りて行った少将の姿を思い出した。少将が飛竜と運命をともにされたことを知ってあのときなぜ湊川神社へ行かれたかが私にははっきりわかってきた。

駅でみた丸い眼の雨衣姿が私には水久に忘れられないものになった。

第二機動部隊も増強された。

(四) アリユーシャン作戦と私

  大艦隊にふくれあがった北方部隊が大湊沖に勢揃いしたのは五月中旬だった。艦隊泊地は田名部に近いところから大湊航空隊のはるか西方の沖合までつづいた。このときの仕事の一つとして記憶に残っているのは、占領予定地のキスカ島などに日本名をつけたことだった。当時、軍令部から送ってきた。ミドウェイ島の兵要地図に誰が名付けたのか「水無月島」という日本名がついていた。一方、キスカ島に上陸する陸軍部隊などから、同島の海岸や高地、川や湾に日本名をつけてくれという要望があった。在来のアメリカ側地図ではほとんど地名がついていないので作戦行動に不便だというのがその理由だった。これは作戦遂行の便宜上緊急を要する問題なので急いで案を作った。そのついでに占領予定の島でも日本名をつけようとうことになった。これは日本側の意図が暗号解読などで事前に敵側に洩れないための私密名称としても役立つと考えたからである。

そのころはこうしたことについて、連合艦隊司令部からも何の指示もなかった。そこでアリユーシャン攻略を予定どおり実施するかどうかが問題になった。連合艦隊からは、ミドウェイ方面の戦況に関連して、北方部隊から第二機動部隊と第一水雷戦隊を同方面に急行させるよう命令が出された。そのため、攻略作戦は一時見合せの状態になった。

その日の夜はアリユーシャン作戦を実施するのか中止するのかについて司令部の中でもいろいろ議論がたたかわされた。作戦を実施し案を作らねばならない立場の私はしばらく考えた上で、一つの方針を決めた。日本勢力の東北方向への進出という意味で、古事記、日本書紀にある日本武尊の神話に縁のある名前をアリューシャンの諸島につけようというのであった。この作戦の成功を神に祈る気持が働らいていたことはもちろんである。アッツ島を熱田島、セミア島を白鳥島、アダック島を駒形島などとしたのはその意味である。

ただ一つの例外がキスカであった。これ鳴神島としたのは、、ミドウェイが水無月島としたのに対応させ、進攻の六月を記念する意味でそのもう一つの別名を使った。これは松本主席参謀が持っておられた日記帳が種本になった。攻略作戦が成功した後、大本営報道部の発表以後、これらの名前は公式にも使われるようになった。

五月下旬、北方部隊は相ついで陸奥海湾を出撃した。瀬戸内海からは、ミドウェイ作戦部隊が出勤していたわけであるが、太平洋を東に向って濃い霧の中を航進する那智の艦橋に立ちながら、私の胸には、いまや日本の連合艦隊は世界最強の艦隊だという自負心が誰な話すともなしにわきあがっていた。ところが、こうした楽観ムードが無惨にも打ち破られたのはそれからわずか数日後であった。

ミド ウェイ沖での空母主力が戦力を喪失した電報を受け取ったのは六月五日午前だった。予想もしなかった事態が発生したことを知ったわれわれの司令部は鎮痛な空気に包まれた。中沢参謀長はひと言「これで戦争は長期化する」といわれた。

ようとする論者は、ミドウェイ方面での米艦隊の追撃を牽制し、連合艦隊の全面的敗退という印象を与えないためにもここで予定計画を遂行すべしという意見であった。作戦を中止しようとする意見のものは、ミドウェイ攻略に失敗した以上は、アリユーシャン要地だけの攻略では戦略的効果が少なくなるというものであった。しかし事柄は戦局全般に関係があることであり、北方部隊だけが決定できる問題ではな。六日の朝になって連合艦隊長官はアリユーシャン作戦の再興を命じてきた。

これらの大部隊を委託された第五艦隊司令部は重大な責任を負わされることになった。北方部隊としてはキスカ、アッツの攻略作戦の成功を確かめた後、洋上でしばらく待機し、アメリカ側の動きを見るということになった。ところが、この海域はその季節はほとんど常時濃霧が立ち込め視界が百メートルという日がつづく。大艦隊がこのような霧の中で長期間行動することは航海上からいってもきわめて危険なことである。その上に敵に対して行動を秘匿するため電波による通信連絡は緊急の場合の外一切禁止しなければならない。

そのために行なった通信手段の一つは旗艦に随伴している駆逐艦に発光信号で電文を送り、その駆逐艦を百カイリ以上も離れた海域に派遣して幌莚島の通信隊に送信し、そこから全艦隊に中継させるというのであった。これによって、各隊の待機中の行動海域を指定し、その指定海域内でとのように動くかもきめた。その後、文書にした作戦命令は例の駆逐艦が伝令となって各隊の待機海域に配布して歩いた。この作戦の詳細は戦史に譲るとするが、当時、一方において連合艦隊の退却を援護し、他方においてアリユーシャン要地の攻略作戦を実施した北方部隊の情況はあまり知られていないようだ。六日から八日にかけて北方部隊には第三戦隊(金剛、比叡)、第八戦隊(利根、筑摩)が増強され、第二機動部隊も復帰した。さらに六月十三日になって、ソロモン方面から帰投中の第五航空戦隊(瑞鶴と駆逐

艦一隻)、第五戦隊(羽黒、妙高)も北方部隊に編入された。日本海軍としては、当時戦闘に使える空母のすべて(三隻)と戦艦二隻、重巡七隻を基幹とする部隊をアリユーシャン南方海域に集結して、アメリカ艦隊の進出を阻止する態勢をとった。

六月下旬までこの霧の中の待機行動はつづいたが、その間にこの海域の海霧の特性がだんだんに判ってきた。那智の艦載機などの観測によると、霧は普通、数カイリの幅で東西方向に長く堤防のように帯状に連なっている。この帯状の霧と霧との間には普通、二、三カイリの切れ目がある。この特性をよく知っていると、空母による海戦も不可能ではない。切れ目に出て艦上機を発進させ、母艦はただちに霧の中にかくれる。艦上機を収容するときにまた霧の外に出るわけである。こんなことが判ってきたころ北方部隊の待機任務が解かれて大湊に帰投した。このときの大湊の泊地は、おそらく戦争中最大の艦隊入泊であったであろう。各隊に泊地指定をしなければならなかった私は、川内町の沖合にまで艦隊が碇泊したことを記憶している。入港後、那智で各級指揮官参集があったが、そのとき後甲板で写した写真がいまも私の手元に残っている。その最前列には畑萱長官を中心に三川、高木、阿部、角田、原、大森など各司令官の顔がみえる。当時の戦況を反映してか、一様に緊張した面持ちで長剣を握りしめている。

戦後十年くらいたったある日、ハワイ大学次長のホルムス博士が東京にきて、私に面会を求めてきた。彼はアリューシャン作戦のころ、海軍少佐で北太平洋方面を行動していたアメリカ艦隊の情報参謀をしていたという。彼の主たる関心事は潜水艦戦の歴史を書くことにあったが、話が北方作戦になったので、私が霧の中で待機している間に霧の特性を利用する作戦を考えたという話をしたところ、彼はハタと膝を打った。彼のいうところによると、アメリカの艦隊でもアリユーシャンの東方海域で同じようなことを考えながら日本艦隊が出てくるのを待っていたとうのである。

私の第五艦隊勤務はその年の十月はじめまでつづいた。十月の終りに占守島の片岡湾を出港したのがあの方面の風景の見収めになった。

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