TOPへ  56目次

9. 広島で原爆を受けて

金尾 滝一

 昭和二十年八月六日、私は呉鎮守府の人事部員として国民兵召集業務の任務を以て山口県方面へ出張の為朝七時呉を立った。三等車は割当切符で辛じて乗車を許された人々で混雑していたが、二等車は軍公務用車としてまだ少し空いていた。併し人々は皆探刻な顔で笑い声どころか話声一つない。前席に逞しい技術中尉がいたがお互に向ったまま沈黙だ。防諜の為遮蔽された板囲いの隙間から港内を覗うと、先日の呉軍港の大爆撃で戦艦一隻が阿賀の海岸に乗り上げて傾いたまま大きな図体をもてあましている。線路の直ぐ下にも、遠航で御世話になった旧式艦が枯れた松を艦橋やマストにブザマに着せかけられ、カムフラージュで小島を装うている。しかし先日敵さんの空からの手紙によると「もう松葉が大分枯れたから取り替えたらいかがでしょう!」とあった由、何というダラシないことか、嘗ては此の大軍港は戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦そして沖には航空母艦等、所狭きまでひしめき、高らかに軍国日本、帝国大海軍を象徴してたのに!

 私は召集業務の斗志も湧き兼ねるままに、列車は八時広島駅に停った。空爆に明け空爆に暮れ、日毎夜毎に都市は灰塵に帰しているが、さて今日はどんなニュースで暮れるのやら!空はギラギラとまぶしい程の干天に車内もだんだんむれる。

 私は上衣をフックに掛け、腰のものと鞄を棚に上げ窓に頬杖ついて芋畑になっている第五師団の練兵場の方へボンヤリと目を落していた。八時五分発車予定の汽車が十分になっても十四分になっても一向に発車しない。列車の遅れることは当時珍らしくもなかったが、何だか大きな責任に追い詰められた焦燥感はやるせなかった。早く出ないかなぁ!と小あくびしたその瞬間(運命の八時十五分)ピカ ピカ ピカ! 目もくらむ強烈な閃光、青紫マグネ、おやーッ!と首をちじめたと同時に「ガーン!」大きな音というよりか顔から全身へ砂粒一杯投げ付けられた様な衝撃、耳の底がズキーンとうなる。咄嗟に私は頭を抱え、瞼と耳を強く塞ぎ座席の下にモグラ這いに這いこんだ。駅が爆弾一発喰ったな!続いて来るぞ」と直感したが 忽ち!ざぁ! ざぁ! と何と大きな物の崩れる音、その震動は身辺に響いて列車が生き埋めにされる様、これは駅の建物が崩れ落ちたのだった。「爆弾だ!練兵場へ逃げろ、逃げろ」と誰かが怒鳴った。社内は忽ちにして阿鼻叫喚、私は恐る恐る面を上げて、あたりを見廻わした。

 何もかも無茶苦茶だ。窓硝子も棚も一切が吹き飛んでいる。何と鮮血に染まった赤鬼青鬼の坩堝であることよ! 「あッ!やられましたね!」と前席の技術中尉が私に言う「何処?」―「頭です」私はチラッと死感が胸を掠めたので反射的に頭をさすって見たが「ある、ある」とその確かな自分の頭の存在を認めて「助かった」と思った。しかし左手首からワイシャツにかけて血の滝だ。右手から顔面ヌラヌラするのも血だ、窓枠か、硝子が飛んで来たのだろう「兎に角逃げましょう」と、剣と鞄だけ抱えて、中尉と手をとり合って線路へ飛び下りた。幾十条かの線路を夢中で横切ったのであるが、何と不思議なこともあるものだ。各線路に引込まれた車輌が皆横倒しになり、而も数十米外側に吹き飛ばされている。しかも構内見渡す限り数知れぬ老若男女が蟻の巣をつついた様に練兵場の方へ逃げている。その殆んどが赤鬼青鬼だ。何処からこんな怪我人が集まったのか?

 頭から血をかぶっている者、腕をダラリと下げている者、肩にかかっている者、赤ん坊を抱いている女・・・みな血に染っている。線路の端に、五、六枚のオムツが落ちていた。技術中尉はこれで繃帯して上げましょう、とオムツを拾い上げた。雑布、古手拭、オコシのツヅレの様なものを縫いよせた。しかしキチンと洗濯したものである。そのよさそうなのを手早く引き裂いて確りと繃帯してくれた。その看護を受けながら私はふと西の空を見た。「おやぁーツ」あの煙を見なさい!」何と恐ろしい巨大な黒煙の大花キャベツ。瞬間は大入道雲かと錯覚したが、それは手の届く程近い、白、青、紫、橙を取まぜた妖怪な魔雲、モクモクと大蛇の綴り合わせの様に渦巻いている。一体あれは何だろう。全く見当が立たない。ははー、市内に陰蔽された大火薬庫が爆発したのだろう、そうだろう そうだろうと。一人合点して、私は親切な技術中尉とも別れた。(後説するがこの逞しい技術中尉は一週間後コロッと死んだ。)

 私は怪我人の群れの流れに添うて練兵場の方へ出た。向うからボロを着けた中年モンペ女が狂ったかっ好で逆に戻って来ている。おかしな女だなぁ!とその近づくのを見ると、何とそのボロ着と思ったのは肩の皮膚が灰色に焼け破れて垂れ下っているのだった。私はそのただならぬ挙動につられて「どうしたのですか?」と声をかけた。彼女は赤ん坊を背負って家を出たのだが、それをどこかへ落しているのに気が付いて、今さがしに戻る所だった。私は「あそこにオムツが落ちていましたよ」と知らせてやるのも言葉にならぬ鳴咽だった。私は一緒にさがしてやりたい気持で、その後ろ姿を祈った。練兵場の向う側、山の麓にそこここに、白い煙が昇っているのは恐るべき火事の卵であることは、その時は気が付かなかった。芋畑の中道を歩きながら私は驚いた。まだ大火をくぐった筈のないのに、何処でどうしてこんな火傷を受けたのか、肩から腕から背中から皮膚のボロが下っている者、殆んど真裸で黄色にふくれ上ったもの、彼等は歩いているというよりか何かに操られ、声もなく、ヒョロ、ヒョロ、両手を乳の所まで上げて夢遊に流れていく、それは冥土への旅路さながらである。私も確にその中の一人であった。併し、辛じて此処まで遁れ出た人はまだ良い方かも知れない。だが性根尽き果てた怪我人は至る処、道端にうずくまり、或は横になっている。痛みは大いしてない様だが、目は死んだ魚の目で私は「元気を出しましょう」と、励ましたが凡ては無感動だ。己に現世のものとは思われない。私は、その人たちは一時の憩いと思うたが勿論それは永遠の憩いだったのだ。道端芋畑の中に十五、六才位の娘が破れたお腰一枚でお角力さんの様にふくれ石地蔵に座っている。側に古ゴザの上に三、四才位の男の子がセルロイド人形の様に転がっている。私は反射的に近寄った。二人の女学生風の娘が看護していたが、彼女達は「おじさんお願いします」と言って患者を私に押付けて立去った。患者は虫の声をしぼって「ここに居て下さい。一人は残って下さい」と嘆願していた。私は「大丈夫だ!しっかりしなさい。やけどはすぐ、すぐ冶る」と言って私の手を見せた(ミッドウェー開戦時の火傷)彼女は腫れつぶれた眼をゴボーの様な両指で引き開いて見た。この世の見おさめだったかも知れない。名前を聞くと「私は猫屋町の・・・此の子のお父さんは召集されて中支に行って居ります。私が預っているのです。助けて下さい」・・・私はちり紙に住所氏名を書き取って「必ず連絡して上げます」とはげますと「有難う御座います。敵飛行機は逃げましたか?きっと仇を討って下さい」と虫の声。側を通り過ぎる老婆が「まあ!あの子を見なさい」と行きもやらず泣く、連れの者が引張って先へいく。セルロイどの子供は僅に身体を震わせて、しきりに「ミズゥ!ミズゥ!」と訴える。私は見てはおれない。ほとほと困った。ふと見ると芋畑の葉陰にキラキラするものがある。罐詰の空罐であった。思らく便所と一緒に持ち来られたものだろう。私は近くのドブ川で洗って、割に澄んだ水を掬って一杯運んで来た。そら水だッ!とセルロイドに与えようとすると「やけどに水は死ぬるぞッ!」と注意して去る者も居た。しかし寝転んでいるセルロイドには呑ませようがない。私は名案を得た。血染のワイシャツの白い部分に水を含ませて、口にあてた子供は離そうともしない。私は子供に呑ませていたのだが、手探りながら、その女も水にかぶりつく様に欲しがる。僅かな残り水を彼女に与えた。両手に支えた空罐の底水を静に呑んだが最後の一口は、口に含んだまま呑み下さない。おかしいな!と思っていると、彼女はその口の水を元の空罐へ戻しだした。まるでヨダレそのままである。そして彼女は、これを小供にやって下さい!と言って私にのぞける。私はそれを小供の口に流した。

 私は難民のなだれの中で何時間も介抱した。雲一つない焼け付くような炎天下。私自身怪我人なのに、此の患者から手が引けない。私はほとほと閉口した。どうしんらよいのだろう。幸に一台の救援トラックが見えた。私は声をしぼって呼び寄せた。救援トラックといってもボロムシロだ。運転手と協力して先ず壊れない様にセルロイドをムシロの上にのせた。それから例の患者だが、中々重くてむずかしい。私は力を入れて手を引張った。あら!あら!皮と肉がズルッとむける。すこける。別に痛がるようでもなかった。私は二人をトラックに収めてやっと責任を遁れた。併し二人は何時までの寿命であったか知らんが、恐らくその日の日没までは持たなかったであろう。だが私はあの時の深い印象が今一つ残っている。それはあの娘は僅かハンカチ大のお腰を纏っていたのだが、それで常に自分の前をかくそうとしていたやまとなでしこの奥ゆかしさである。それはトラックに乗せる時もそうであった。私は全身に鈍い痛みと疲れを感じた。ヒョロヒョロしながらも牛田の山の麓にたどり付き、一休みせんと小高い所に上り、小松の蔭に腰をおとし、ふと広島全市を見返った。おや!おや!これは又どうしたことであろう。視界の限りは天地黒こげだ。その黒こげの一角から中天に懸って妖灸真紅の焔が全市に覆いかぶさっている。壮大な広島城が今を盛りに燃えているのだ。バァーバァーと焔の音が耳に立つ、その熱気が身を刺す様に感ずる。何と名状しがたい光景よ。明冶天皇の大本営跡だった広大なお城。これは一体夢か、現か、到底此の世の姿ではない。何が何だか、私は正常な感覚を失った。明らかに此の世の終えんを告げる青天のへき靂だった。あらッ!又大きな焼夷弾が落ちて来るッ。と思ったのはそれは煙をすかした真赤な大陽であった。

 私は嘗て、ミッドウェー戦で、蜂の巣になった蒼竜甲板から世界最大の空母赤城が、その図体以上の火柱を洋上になびかせてのたうつ姿、そしてその向うに空母加賀が、大白煙の花キャベツを蒼穹一杯に巻き上げながら、静に沈みゆく光景を此の目で眺め「鳴呼日本が沈む!日本が沈む」と叫んだがその時の光景が今又まざまざと目の前に再現されたのだった。

 私はそれから、あてどもなく饒津神社から白島方面を徨ったが、森木は倒れてジャングルと化し、川端や橋の袂は何処から集まったのか、その無数の髑髏(その時は憩いの人々と思っていた)世界は如何。 神経鈍化せりとは言え見るに耐え兼ねた。

 私は出張の任を断念し呉に引き返さんと田圃伝いに東に歩き出した。(自然に爆心地を隔れたことがよかったのだ)オシメの鉢巻に紅白マダラのワイシャツ、それに短剣を棒にして鞄を担いだチンドン屋姿も此の場合決して無理なかっ好ではなかった。それどころか海田市まで一里の道を歩き切ったのは、日頃の精神力に違いなかった。だがその道すがら行き倒れの人は数知れず、私はヒョロヒョロの同病患者には悩まされた。一人の貴婦人風の痛ましく倒れている姿に私は思わず近寄って「元気を出しなさいよ!病院車がすぐ来ますから」とはげましたが、その夫人は返事もなく「お水ください!」と虫の声で顔をかくす。その顔は四谷怪談「お岩」の顔だった。それは一体誰の貴任なのか?あたかもそれが自分の責任ででもあるかの如く顔をかくす。尚、道ゆけば二、三十人の経我人が道端のアズマ堂に蟻集している。土地の女子青年団が二人一生懸命に介抱している。カガツにダイオ草の根を摺りつぶし、餅米の粉と混ぜた手製の薬を患者の患部に憶面なく塗っていた。私にも、おじさん! どこ? 塗って上げましょうと言う。けたたましい空襲警報に破女は声を枯らして防空壕に患者達を導こうとするのだが、それに反応する患者は一人もない。海田市へは私は街の裏側から入ったのだが、そこは家こそ健在だったが、屋根瓦が一面にぐしゃぐしゃだ。街道は障子や布団類ガラス片で足が踏みこめない。どうも不思議なことばかり。裸でふ抜けして座っていた家のオヤジに、これはどうしたのか? と聞くと、彼も分らんらしく「これは一体どうしたのか」と逆に私に聞く。いつこんなことになったのかと更に尋ねると、「今朝程何か知らないが、大きな火の玉のようなものが、この室の西から東に突き抜け神棚まで持って行かれた!」という。海田市駅は群集に溢れ切って寄り付けない。併しその群集の中から私は防暑服に薬ノウ提げている二人組の看護兵を見付けたので「おい俺は士官だ、治療してくれ」と言ったら彼等は早速そこで薬ノウを解きかけた。ところが、あなたはお医者さんですか。 私にも私にもと四方から患者が殺到して、収拾がつかなくなった。機転を利かせた看護兵は、私だけを民家の裏庭に導いて、そこで始めてオムツの繃帯をとりのけ正式の仮冶療をして貰った。傷は浅いとのことであった。駅は何時まで待ったとて汽車は来ず、又来たとしても乗れそうもない。看護兵達は呉病の病院車を待っているのだ。少々の薬では焼石に水で病院に取りに帰っている所だという。間もなく車が来た。これは有難い。早速便乗さして貰った。車の中には道端で拾った五、六人の怪我人が居た。誰も寝転んで生きた顔はないその一人の男作業衣とゲートルがズタズタにすれ切れているので、どうしたのかと聞けば「広島の街中を通っていたら、誰か知らんがうしろから突き飛ばし四、五十米も吹き飛ばされ遂に電信柱に引掛って止った」という。

 呉では直に見たままを報告しょうとしたが己によく知られていたので急ぎ呉海軍病院に行き(院長福井信立中将)馬淵少佐の鄭重な手術を受けた。前額三針、後頭部七針、幸に傷は表皮だけで見た目よりは軽かった。呉病にもベッドの余裕はなく私は元気を出しその日呉から更に一時間半の竹原に帰ろうとして呉駅に向った。灯火管制の街の夕暮は人影動けど異様な無気味さが漂よう。駅構内は殆んど真暗だが螢灯の車内はスシ詰めどころか、網棚の上にも詰められた患者々々。黄泉に近い患者の混雑とウメキ声が闇中に交錯して、さながら此の世の地獄を思わせ一層凄惨を極めた。私は入口の所に尻を突込み、兎にも角にも竹原駅にたどり着いた。プラットに降りて、暗中改札を出ようとするとここにも迎えの群集で一杯だ。その日は竹原から沢山の人が広島へ勤労奉仕(家屋の粗開作業)に出かけた日で、安否を気遣った家族達の迎えだったのだ。闇の中に私の繃帯姿を見て、いきなり「アナタ!」と私は何人かの女や老婆に抱きつかれた。自分の主人や息子だと思い込んだ希望的盲動だったのだ。私は否定するのが気の毒であった。駅から尚三〇分、私は始めて静かな夜道を歩いた。あたりはすっかり夜の世界だった。なんと今日は長い長い一日であったことか。自分には今日一日どんな歴史が出来たことか。それにしても朝から何も食わず飲まずでありながら別にひもじさも覚えなかった様だし、不思議にも気分は常に確かであった。そして今日のことは、間違いもなく現実であり、かつ自分は今尚ここに生きていることを確認するのだった。ひんやりとした一陣の風が更に私の顔を研ぎ澄ます様だった。空は一面に数限りない星の世界だ。星々は今は誰にも見られてはいないかの如く思うさま遊び、思うさまたわむれていた。輝やいたり、消えたり、又またたいたり、星の世界は荘厳であり、神秘でありそして実に美しい。此の地上は恰も星の国の植民地か? ひときわ目立って大きな星、あれは宵の明星か?それは恰も宇宙怪物の目玉の如く鋭く輝き、地上の人間共のやらかす醜い遊びごとをじっと見下していた。げに罪深き人間共よ!私は闇路に想にふけりつつわが家の戸を叩いたのは何時頃であったろうか? 玄関薄あかりの中に私の姿を見た妻が目玉が飛び出るほど驚いた。

 此の思い出話は尚長いのであるが此の辺で省略して今一つ是非加筆せなければならないことは、最初広島駅で親切に私を看護してくれた例の逞しい技術中尉、その後四、五日目に私は呉病冶療室で出会った。彼が先に声をかけ見舞も言ってくれた。彼は顔の半面から首にかけ皮膚が黒こげにただれていた。看護婦はピンセットで、桃の皮をむく如く剥いでいたが、全く痛くもないと言っていた。あの時無傷であった彼は、その後何時間も現場附近、或は帰心地近くをうろついたと言う。それがいけなかったのか、それとも、顔の半面から察してあのピカピカを生で受けたのが悪かったものか、彼はそれから二、三日日に、ころっと亡くなったと聞かされた。

 私はどうした運命か、その時の怪我だけの怪我で済んだ。勿論私も白血球が一時二千台に下って気味悪かったこともあるが、幸に田舎に住い、南瓜やトマトを豊富に食っていたことが体を次第に正常に戻してくれたのであろうか?

 あれから時勢は一変した。原子爆弾や、核兵器等の言葉な聞く度毎に、私は人一倍胸を打つ。想うに戦争の惨害を身にあびた者程、真に平和を希求し平和を論ずる資格があろう。これは軍国主義の鼓舞でもなければ軍備の否定でもない。

 私は今高校の教壇に立ちて、昔のことを何にも知らない現代の若者に対して、何か教えてやらねばと思い悩んでいる。私は過去十年ばかり女子高校で、彼女達の在学中この原爆の思い出を語ってやる。これ程強烈な感動を受ける場面は外にはない様だ。人間の魂のある限り泣かない生徒はない。戦争関係は一般的にタブーだが、私は生きている今のうちに、真実の歴史の一駒を後世へとの自然の願いが私を駆り立てるのだった。

TOPへ  56目次