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五、レイテ沖海戦「作戦参謀」の手記

大谷 藤之助

 () 私の戦歴・不思議と命ながらえて

開戦劈頭「新高山登れ」の真珠湾空襲に於ける機動部隊(第五航空戦隊参謀、旗艦新鋭空母「瑞鵡」)作戦から、昭和十九年十二月レイテ沖海戦(第二艦隊作戦参謀、旗艦大和)を終って大本営参謀(海軍省副官)に帰任するまで、まる三ヶ年−大東亜戦争四ヶ年の四分の三を、聯合艦隊の主力第一線海上部隊戦闘参加に終始した。この三ヶ年を共に歩んで来た者は、殆んど今生存していないと云ってもよい。前半或は後半を共に歩んだ多くの戦友も、ことごとくと云ってもよい程戦死した。まさに「死なばもろとも、海底のもくず」と云われる、いくたの艦隊戦闘を経て、今日こうして生きながらえていることが、我ながら不思議にも思われる。静かに瞑目回想すれば、万感無量の思いがする。

三ヵ年の前半は、帝国海軍の誇る母艦航空部隊の精鋭、五航戦において、真珠湾空襲、次いで南方のラエ・サラモア、アンボン、濠洲のポートダーウィン空襲、続いて印度洋に出てセイロン島コロンボ、ツリンコマリー空襲、折返してポートモレスビ−攻略、MO作戦の支援部隊として珊瑚海に転戦した。

珊瑚海海戦では世界戦史初の空母対空母決戦に参加し、堂々四つに組んだ母艦航空決戦において米の誇る最大空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを大破し、我は瑞鶴無傷、翔鶴微傷と云う一方的戦果を収め、上陸作戦の戦略目的は達成出来なかったが、空母決戦の戦術的勝利の意義は大きなものがあった。

我々は意気揚々と修理補給のため呉に帰投した。一方の一・二航戦(赤城、加賀、蒼竜、飛竜)はその直後ミッドウェイ作戦に参加不幸にして全滅し、呉に帰投してきた。旗艦大和に於ける機動艦隊司令部との再会には、心中まことに複雑なるものを覚えた。

その後更に、アリユウシャン作戦の支援部隊として、霧たちこめる北 太平洋作戦と、文字通り太平洋、印度洋と縦横に転戦また転戦、まさに帝国海軍の誇る母艦航空部隊の精鋭−栄光に輝く進攻作戦を満喫したのであった。 

この間、若し五航戦が珊瑚海海戦にゆかずにミッドウェイ作戦に参加していたとすれば、結果はどうなったか、私の運命もどうなったか・・・・・、恐らく今日はありえなかったであろう。

続く三ヵ年の後半は、航空母艦から足を洗って本来の海上部隊に転じ、大和、武蔵を含む水上決戦兵力の主力たる第二艦隊の作戦参謀となり、旗艦愛宕に転じた。この時には前後して、宮本鷹雄兄が砲術、森卓次兄が水雷、故大塚清兄が航海各参謀となり、私を加えてクラス四人が艦隊司令部の中枢に座り、ミッドウェイ敗戦を転機とするきびしい戦局の下、次次と迎えた苦闘の水上部隊連続作戦においても、一糸乱れず互いに協力し扶け合って、それぞれ全力を発揮し得たことは、何よりの幸いであった。昭和十八年半ば、第二艦隊はその全力を挙げてトラック島に進出した。今やミッドウェイ海戦の敗退を契機とし、母艦航空部隊の大部喪失は、彼我の戦勢に一大転換をもたらし、敵の反攻は日を追って激化し、母艦航空兵カの支援なき海上部隊作戦は転落後退を余儀なくされ、苦難の時代の始まりとなった。

トラックに前進待機中、第二艦隊はガダルカナル撤退支援部隊としてラバゥル沖に突入、次で敵機動部隊トラック大空襲に先立ちパラオに後退、時に昭和十九年二月、更に十九年三月末ダバオ、次でリンガ泊地(昭南南方方面)へと転じた。この間敵は飛び石作戦でガダルカナルからニュウブリテン、ニューギニアへと進攻してきた。その反攻は日を追って熾烈、彼は悪戦苦闘戦の連続であった。

昭和十九年五月、敵のマリアナ方面反攻に備えて、「あ」号作戦が発動され、機動部隊、水上部隊は全力を挙げて、比島南方タウイタウイ泊地を経てサイパン沖に向け出撃、所謂マリアナ沖海戦に突入した。

遺憾ながら本海戦において、空母は瑞鶴のみを残して大鳳、翔鶴を失い、海戦以来の母艦航空兵力は、これによってまさに壊滅同然となった。

本海戦失敗の主因は

() 企図の秘匿が出来なかったこと。

() 母艦航空部隊の戦力練度低下が著しかったこと。

() かかる練度でありながら徒らに空母を愛惜して、アウトレンヂの航空攻撃戦法をとったこと、すなわち遠距離発艦攻撃をかけ、塔乗員の術力ともなわず、攻撃の成果も上げえず、労して被害のみ多からしめたこと。

等が考えられる。

先のミッドウェイ海戦に次ぐ本マリアナ沖海戦は、共に彼我堂々互角で勝負した。全海上戦闘中の二大決戦と云うべき両作戦の大敗によって、我が海軍兵力は、まさに海上決戦兵力としての資格を完全に失ってしまった。

マリアナ沖海戦を経て、第二艦隊始め残存部隊は呉に帰投、修理補給にあたった。

この時水上部隊に始めてレーダーを整備した。昭和十九年八月第二艦隊を主力とする水上部隊は挙げて呉軍港出撃、リンガ泊地に進出、レーダー射撃始め艦隊戦闘の昼夜訓練に没頭し、次期作戦に備えた。

() 捷一号作戦への突入

当時大本営は、既にマリアナ戦線を失い、比島、台湾、南西諸島及び日本本土を絶対防衛戦として、この何れかの地点に敵が来襲した場合、直に我が海軍の総力を挙げて決戦をいどみ、これを撃滅する方針を決定した。この作戦要綱に基づき、聯合艦隊は比島決戦に即応する「捷一号作戦」(敵反攻上陸二日以内に捕捉撃滅を目途)を準備していた。

十月十七日、比島レイテ沖の小島に敵上陸の報に接し、直に捷一号作戦警戒発令、十月十九日に至り、レイテ突入を]日(十月二十五日)とし、

() 基地航空部隊一航艦は比島において、二航艦は南九州より比島に進出展開決戦

() 機動部隊は瀬戸内海を出撃、]マイナス一日比島東方海面に進出、いわば「おとり」陽動部隊として行動、敵機動部隊を牽制、捕捉撃滅して、水上決戦部隊の行動を容易ならしめる任務を与えられた。

() 第二艦隊を主力とし、当時の残存全兵力を糾合した水上決戦部隊、第一遊撃部隊(以下栗田艦隊と称する)は、リンガ泊地よりボルネオ北部ブルネー前進基地に進出、サンベルナジノ海峡をへて]日未明レイテに突入、敵艦隊、敵輸送船団の捕捉撃滅に任じ

() 第二遊撃部隊(志摩第五隊)は内海西部より馬公、スル海を経て、]日未明スリガオ海峡より第一遊撃部隊に呼応して、レイテ突入。が下令せられた。

当時第二艦隊は、世界最大の巨艦として始めてベールを脱ぐ、七万屯戦艦大和、武蔵の第一戦隊を始め、第二戦隊長門、扶桑、山城、第三戦隊金剛、榛名の七戦艦を始め、第四戦隊愛宕、高雄、摩耶、鳥海、第五戦隊妙高、羽黒、第七戦隊熊野、鈴谷、利根、筑摩、外に最上、第十戦隊、第二水雷戦隊等の帝国海軍の精鋭を網羅した。

これより先、聯合艦隊の捷一号作戦伝達、打合せがマニラにおいて行われ、小柳参謀長と共に私は、リンガ泊地からマニラに飛んだ。

ついてみると、クラスの久住忠男君が比島にいた南西方面艦隊参謀をやっており、開戦以来、たえての出会いで、共にきびしい戦局の前途を憂えて語り明かしたことを思い起す。

かくて栗田艦隊は一部(第二戦隊山城、扶桑及び最上、第四、第二十七駆逐隊)をさいて、西村祥治指揮官の下に、スリガオ海峡より]日未明レイテ突入、主力との挟撃を下令するとともに、十月二十二日未明、主力はブルネー出撃、敢えてレイテ湾への最短コースを執り、パラワン水道より、シブヤン海、サンベルナジの海峡突破と進撃を開始した。

出撃前夜、旗艦愛宕に各艦長以上指揮官参集し、いわば我が海軍の精鋭、水上兵力挙げての最後の艦隊決戦に参加する栄誉と、各隊の勇戦奮戦を誓い、最後の水杯を交わした。其の夜スリガオ突入部隊の西村指揮官、藤間良最上艦長−海軍大学時代の教官であり、特に親しくしていた−方々とこれがこの世の別れと杯をあげ、舷門で手を握りあって、互いに武運を祈って別れた夜のことが、まざまざと浮んでくる。必死を前にした両指揮官の平然従容たる談笑の姿が、未だに私の眼にやきついている。

また、この作戦を前にして、旗艦を愛宕のままか、大和にすべきか、参謀長ともいろいろ検討を重ねた。作戦・戦闘の様相、艦隊の指揮掌握等の大局から、戦艦大和に変更することが望ましいとも考えていたが、水上部隊にとっては特攻攻撃にも等しいような必死のなぐりこみ作戦を目前にしての旗艦変更は、全艦隊に及ぼす士気への影響を顧慮して、旗艦は、あえて愛宕のままとした。

大和の第一戦隊司令部には、本作戦行動中、洋上にて旗艦変更する場面生起必至と、予め其の心構え、準備もさせておいた。また対潜警戒上、進撃航路はパラワンの狭水道を避け、新南群島方面の迂回路をとることが有利であったが、各艦の航続距離、決戦海面での軽快艦艇の燃料保有を重視し、対潜対策を厳にすることにして、敢えて最短コース、予期する敵潜伏在海面を突破したのである。

案の定、二十三日未明既に日出一時間前より、十八節、之字運動航行進撃中、敵潜襲撃により、重巡旗艦愛宕、摩耶を失い、高雄大破戦列離脱の止むなきに至った。艦隊司令部は長官を先頭に、三発の被雷、横転覆没する愛宕の左船側バルジから海中に飛び込み、重油の中を、一キロ彼方の駆逐艦に泳ぎつき、更に大和へと将旗を移した。この敵潜攻撃の被害は、予想より遙かに大きかったことは誠に残念であった。幸に、旗艦変更は予想もしておったことで、艦隊指揮、作戦行動上には何等の混乱支障も来さなかった。

() シブヤン海での決断

明けて二十四日、シブヤン海に入るや、敵の母艦航空攻撃圏内となり、朝来、敵艦上機の反覆大空襲、数十機より百数十機と回を重ね、時刻を重ねるに従い、来襲機数増大し、雷撃、降爆、機銃掃射と間断なき攻撃、味方上空には一機の直衛もなく、また協力部隊の味方機動部隊よりは終日、また、基地航空部隊よりも、何等の連絡通報もなく、敵情不明、その牽制、支援行動にも疑問と不安をもちつつ、ただ対空砲火と雷爆撃回避運動を頼りに、悪戦苦戦、針のむしろに坐っている様な一日であった。

この空襲で各艦の被害、死傷者多数、遂に武蔵は二十数発の魚雷、十数発の直撃弾により落伍沈没、妙高も戦列落伍の余儀なきに至り、大和、長門、金剛も被弾、多数の死傷者を出したが、幸に戦闘航海には支障なかった。

目的地到達の前に、二日間に亘り既に戦力の半ばを失うという悲運を重ねた。

この日(二十四日)午後三時すぎ、第五次の敵機来襲直後、私は八塚航海参謀に「このまま続行すればサンベルナジノ通過は何時頃になるか」と尋ねた後、一考した。このまま東航すれば、サンベルナジノ海峡の狭隘な水路に入り、敵機の来襲に対し艦隊行動の自由に懸念あり、また、敵艦上機の用法、練度を考えれば、敵の来襲はあと一回か、これで終りかとも考えられ、この際艦隊は一時反転西航して足踏みし、出来れば敵機を欺瞞した上で、折返し東進することが、窮令の一策だ。敵をして我は、被害にたえかねて反転避退と誤断させることもあり得べし、また、サンベルナジノ海峡出口に予想される伏敵をも欺瞞することもあり得べし−と考え、参謀長に私は一時反転足踏みを進言した。艦隊は直に其の行動をとった。時に午後三時半。敵の五次攻撃機は我が反転西航を見とどけ、被害甚大のため日本艦隊退却と報じ、爾後の敵の作戦指導判断を誤らしめたと戦後判明す。)

同時に参謀長より、本朝来の戦闘を省み、また、友隊より何等の敵情通報もなく不明、刻々空襲はげしくなる様相からして、友隊の協力にも不安あり、目下の我が情況判断を連合艦隊長官に打電を命ぜられた。私はこれにより併せて友隊の奮起をも期待できると考えた。同文を一、二航艦長官にも通報した。時に午後四時。

電文要旨

『いままでの処、航空索敵攻撃の成果も期し得ず、逐次被害累増するのみで、無理に突入するも徒に好餌となり、成算期し難きを以って、一時敵機の空襲圏外に避退し、友隊の成果に策応し、進撃するのを可と認む。』

固より我が艦隊は連合艦隊長官より右の返電、指示をまって、予定の作戦行動を続行するとの意志は、当初より全然なし。幸にして三時半以後敵機の来襲もなく、日没も近くなったので、栗田長官は、「頃合よし、もう引き返そう」と、一七一五反転、東航を命じ、サンベルナルジノ、レイテへと向った。その途上約二時間後、午後七時すぎ、聯合艦隊長官より(受信一八五五)「天佑を確信し全軍突撃せよ」との電あり。我々も敵情、友隊の動き不明のままながら聯合艦隊の気持も解って進撃を続けた。

反転西航、情況判断の打電から、栗田艦隊は敵の航空攻撃の被害に耐えかねて反転避退したが、聯合艦隊長官の電命で翻意し、改めて予定作戦に引きかえした、という者があるとのこと、全く事実経過に、相違していることを滋に明かにしておく。

 

 () レイテ沖の会敵

かくて、海峡出口に伏敵あることを予想し、夜警戒を厳にしつつ、サンベルナルジノ海峡を突破して、比島東方海面に進出。予期に反し敵影を見ず、いささか拍子抜け、唖然とした。さては、一時西航反転も効能があったのか、と考えながら、一路レイテをめざして夜暗を南下した。

これより先、スリガオに分派した西村部隊より、午前四時レイテ突入予定の連絡をうけ、同最上偵察機よりは、二十四日朝レイテ湾内に戦艦四隻、巡洋艦二隻、輸送船八十隻・・・・の敵情入手しあり。栗田長官より西村部隊に対し、「主力は午前十一時レイテ湾突入の予定、西村部隊は予定通りレイテ突入、攻撃後午前九時スルアシ島の東北・・・浬附近にて主力に合同せよ」と電令した。

〇五三〇(日出一時間 前)、昼間の対空警戒航行序列(輪型陣)を発令した。針路一五〇度。第一戦隊(大和、長門)その左寄りに第三戦隊(金剛、比叡)の四戦艦を中心として左右に第七戦隊(熊野、鈴谷、利根、筑摩)、第四戦隊(鳥海)、第五戦隊(妙高、羽黒)第二水雷戦隊(能代、駆逐艦三)、第十戦隊(矢引、駆逐艦六)。

〇六二三(日出頃)、大和の電探は敵触接機をさぐり、それから四分後、大和の見張員は、南東方の遥か水平線上の彼方に、突如としてマストを認めた。上部の見張からか、或は艦橋からか、「それは味力西村部隊かもしれんぞ」と云う声が私の耳に入った。既に西村部隊は前夜全滅の概況承知していた故、私は「見えるものは皆敵艦隊だ」「よく見張れ」と云い返した。やがてマストは空母数隻を含む敵機動部隊だと解ってきた。まさに天佑、求めても得られない好餌、敵の正規空母、機動部隊(戦後輸送空母と判明)に遭遇、連日の悪戦苦戦のはて、レイテ突入を前にして戦運漸く我にめぐり来ったと、こおどりした。長官は躊躇なく、レイテ突入を措いて当面の敵機動部隊撃滅を決意した。直に全力即時待機とし、一三○度列向変換、展開方向を一一〇度と下令された。敵の風上側に占位し、敵機発進を封殺する如く、満を持して敵に立ち向った。

敵は未だ我を敵と気付かないのか、反転の気配もなく近接してくる。できるだけひきよせて〇六五八 約三二○○○米 大和前部砲塔で射撃開始、続いて第三戦隊も敵空母に対し砲戦加入した。つづいて全軍突撃、水雷戦隊には後より続行が下令された。母艦部隊は、水上戦闘となれば無力に等しい。この弱点に乗じ敵を潰滅するには、彼我四つに組む艦隊決戦に於ける展開のような悠なことは、禁物である。分秒を争って敵に喰い下ることが先決だ。 敵は気がつき次第、全速で避退に専念するか、風に立ち向い艦上機発艦、反覆航空攻撃を加えつつ、其の優速を利用して遁走するかの何れ、一刻の猶予も禁物、拙速を尊び敵に殺到することが肝心である。

水雷部隊の突撃を手控えたのは、両軍主力の艦隊決戦なら別だが何等運動を拘束されない、変針回避、避退自由な敵の優速部隊に対しては、射点後落し、有劾なる魚雷攻撃は至難である。戦勢を見定め、適時進出下令が賢明と考えられたのである。

かくて戦勢は我に有利に展開した。追われて必死に遁走する敵艦は、空母始め駆逐艦相次いで撃破された。米艦隊の反攻もなかなか勇敢であり、巧に煙幕を以て逃れ、スコールを利して我が艦隊の分散、誘導に努めた。また、空母を飛び立った敵機、更に当時視界外にあるものを含め、十六隻の敵空母(戦後判明)から発進の敵艦上機は、漸次来襲、機数を増大し、我が追撃の手をゆるめさせるため、反覆空襲をかけて来。た

 

() 追撃戦の二時間

栗田艦隊は、片手で敵艦隊追撃の水上戦闘、片手では来襲敵機の対空戦闘、雷爆回避運動につとめねばならず、砲戦威力発揮もなかなか困難であった。この戦闘の中で、敵駆逐艦の肉薄攻撃も極めて勇敢で、スコール、煙幕の中から影絵の如く我が艦隊に突進し、〇七五四、大和に対し右一〇〇度方向より六射線の雷撃を発見、回避のため大和は外方(非敵側)に転舵回避を余儀なくされ、約十分近く魚雷に挟まれながら併進し、序列の最後に占位後落し、一時有効なる砲火中断の余儀なきに至った。

当時の森下艦長が「敵の魚雷攻撃に対し、射線にとびこむ内方回避はなかなかやれないものですな」との言葉が、印象強く残っている。この戦闘で始めて、煙幕、スコール中の敵空母に対し、大和のレーダー射撃を行った。大和の十八インチ砲で敵空母一隻撃沈。十八インチの徹甲弾で炸裂せず、空母甲板のどまん中に貫通し、横倒しに沈みゆく敵をながめながら、その舷側を全速で突破進撃した。乗員の大半が海上を泳いでいた姿が、今眼の前に浮んでくる。

また、大和の副砲で、来襲肉薄する敵駆逐艦三隻を撃沈している。当時これらの駆逐艦を巡洋艦、空母は正規空母と誤認したが、戦後、これは駆逐艦と護送用空母であったことが判明した。当時、艦隊司令部から報告した各隊の綜合戦果は、「空母三撃眈、巡洋艦二撃沈、駆逐艦三撃沈、一大破」である。

我が方においても、重巡熊野、筑摩、鳥海外駆逐艦数隻も空襲、砲火の為損傷して、戦列から落伍した。

かくて、追撃開始より既に二時間、全速で追及するも捕捉できず。敵はまさしく機動部隊の正規空母で、三十節に近い高速に違ない。この上レイテ突入を考えると、燃料が段々心配になる。大和より遥か前方の巡洋艦の戦況を見ても、戦は閑散の如く、既に敵を見失っているのではないかと推測された。先頭隊からも何等の報告もなく長時間の戦闘(空襲、砲火)で電話連絡不通となり、幾度敵との触接情況をきいても、一向に返答なし。遂に長官も追撃を中止し、艦隊集結を発令された。時に〇九一〇。追撃中止時、先頭隊の味方巡洋艦が、敵空母陣との距離約一万米に肉薄していたことが、戦後判明した。もし当時、先頭にいた友隊からこの情況を報告、連絡していたならば、勿論追撃は中止されることなく、これが撃滅に専念していたであろうが、惜しくも好機を。逸した

 

() 友隊の行動

() 西村部隊

十月二十四日夜スリガオ海峡に突入した西村部隊は、旧式戦艦山城、扶桑、軽巡最上、駆逐艦四より成り、これに対抗したアメリカ艦隊は、旧式戦艦六、重巡四、軽巡四、駆逐艦二十、魚雷艇三十九であった。西村部隊の行動は敵触接機により偵知され、狭水道北上中、日没から、両岸にはりつけた魚雷艇群、駆逐艦の連続攻撃を受け、更に水道の出口に持ち構えた敵巡洋艦、戦艦戦隊のレーダーに依る集中射撃を受け、西村部隊は勇戦力闘の末、損傷の最上を残して、全滅の悲運に際会した。本作戦は、主力栗田部隊のレイテ突入に策応、狭撃を企図したもので、まさに特攻攻撃であり、敵情によっては、お互いの突入時機も前後することあるべく、また、不幸にして栗田艦隊単独突入となる場面も、予期せられた処である。西村部隊の全滅が、主力のレイテ突入を変更断念させたと云うことは、全然あり得ない。

() 志摩第五艦隊

当時第五艦隊(那智、足柄、阿武隈、駆逐艦七隻)は、三川南西

方面艦隊の指揮下にあり、栗田艦隊に策応してレイテ突入の命を受け、同艦隊は、西村部隊に引きつづき進撃した。もとより同艦隊とは事前の打合せ、連絡もなく、本作戦は単独作戦であり、栗田及び西村部隊とは、何等の指揮協力関係もなかった。

かくてスリガオ海峡に入るや、旗艦那智はレーダー捕捉の敵に魚雷攻撃後、損傷の西村部隊軽巡最上と、不孝にして衝突事故を起して、艦首破損、二十節以上の速力が出なくなり、止むを得ず一旦敵から離脱し、海峡外に出て、情況を見て再挙を図ることに決し、全軍に反転を命じたのであった。かかる事故さえなければ志摩艦隊は、西村部隊と同様の行動を執ったであろう。

かくて栗田艦隊は、概ね一○三○各隊の集結を了し、一一二○針路二二五度とし、一旦レイテ湾に向ったが、諸情況を判断し、レイテ突入を断念し、「〇九四五スルアン灯台の北方一一三浬」の敵機動部隊(虚報なること戦後判明)との決戦を期し、北進に転じた。当時集結した我が艦隊戦力、戦艦四(大和、長門、金剛、比叡)、重巡ニ(利根、鈴谷)駆逐艦七隻であった。

() レイテ突入を断念した理由

本作戦目的の変更については、いろいろの批判や意見を聞くようである。如何なる議論も批判も自由であり、謙虚に耳を傾けるものであるが、しかし、その大分が、実相をふまえないで、或は、突入成果を誇大視した机上論であり、艦隊司令部が左の理由に基づいて措置した事実を、冷静に思考するならば、自ら当否は明白となるであろう。

 

() 今朝(二十五日未明より)不意の遭遇戦には、敵も余程周章狼狽したらしく、さかんに平文で電信・電話を交換している様子が手に執るよう(当時、大和の司令部敵信傍受班には、優秀な語学堪能の敵信傍受専門の予備中・少尉士官が十名近く勤務)に報告されてくる、湾内のキンケード第七艦隊長官からは、さかんに機動部隊の救援を求めている。機動部隊からは、あと二時間を要すとの返電もあり、第七艦隊の出動を思わせるような電話もある。タクロバンの飛行場も使用し始めたようだ。

たとえ栗田艦隊がレイテ湾内に突入しても、敵の第七艦隊も輸送船団も脱出して、からっぽになっているかもしれない。飛行機を持たない栗田艦隊には、これを偵察する方法がない。西村部隊、志摩艦隊の戦闘の断片的情況は知るも、その後湾内の情況は、何の情報もない。

() たとえ輸送船団が湾内に居残っていても、連合艦隊作戦要領に示された、海上部隊の突入時機の標準、敵の上陸後二日以内ならまだしも、既に上陸開始後一週間も経過しており、アメリカの揚塔能力のことだから、陸揚げを終って空船同様か、或は湾外に遁走しているであろう。

() 狭い湾内で、()集してくる敵の機動部隊及び急設飛行場を利用する全飛行機の集中攻撃を一手に引き受けて、更に湾内の敵海上部隊との水上戦闘を交え、是等の反撃を排除し、生き残りが散在する敵輸送船の数隻に攻撃の手が届いても、その輸送船たるや空船同然ときては、何のための突入かと云うことになる。ただ突入玉砕以て足れり、と云うならば問題は別だが、まさに飛んで火に入る夏の虫同然で、彼らに好餌を提供するだけの野たれ死にの様なものだ。

 

(4) 小沢艦隊が敵機動部隊を北方に誘致していたことは、何等の連絡、通報にも接していない。戦況について全く不明である。前日二十四日より、また、二十五日も敵情に関する通報なし。

敵機動部隊は少なくとも三群で、昨夜来我を追求しながら逐次近接し、今朝遭遇したのは、最南端の一群で、これには相当の打撃を加えた。他の二群も必ずや附近教マイルの至近距離にあり、逐次連繋して−愈熾烈なる航空攻撃を加えて来るに相違ないと判断した。この頃になって、再び敵艦上機の空襲の激しくなってきたのは、その新たな攻撃に違いないと判断した。

() 一方、南西方面艦隊からは、「敵の正規母艦部隊〇九四五スルアン島(レイテ湾口にあり)灯台の北一一三マイルにあり」(虚報なること戦後判明、これに災されて決意したことは不運であった)との通報を受けていた。これが、恐らく我に近接するハルゼー機動部隊の、最も近い他の一群なりと判断した。

() 依然レイテ湾内の敵輸送船団に固執すべきか、新たな敵機動部隊に転ずべきか、もともと栗田艦隊は、レイテ湾究入の途上においても、敵機勤部隊との決戦の好機があれば、突入は二の次として、敵機動部隊との決戦に専念することは、捷一号作戦当初から当司令部の腹案であり、マニラに於ける聯合艦隊作戦伝達、打合せの節、聯合艦隊司令部も、よく了承しているところであった。

() ルソン基地に在る第一・第二航空艦隊は、日本海軍基地航空部隊の全力と考えられている。これと、うまく協同すれば、洋上決戦必ずしも難にあらず、よしんばこの一戦において玉砕しても、敵にも容易ならざる損害を与え、日米両海軍の最終決戦を飾ることが出来るであろう。旧式戦艦や、価値なき輪送船と引換えに、最後のとっておきの精練な艦隊を潰すよりは、よしや全滅しても、最強の敵機機部隊に体当りして、砕けた方がどれだけ有意義かしれない。これこそ死花を咲かすというものだ。本望だ。これが、当時の長官以下幕僚の心境であった。

かくて栗田艦隊はレイテ突入を断念して、〇九四五発見の敵機動部隊との決戦が、最善の方策と断じて、北進に転じた。かくて索敵北上し日没になったが、敵の動静に関して何処からも通報がない。午後六時頃、サンベルナルジノ海峡附近に達し、なおも沖合に変針足踏みしたが、更らに敵情に関し、得るところがない。駆逐艦の燃料は段々心細くなってきた。致し方なく、一切の洋上戦闘を断念して、ブルネー湾に帰港することに決し、午後九時三〇分サンベルナルジノ海峡を通過して、シブヤン海に入った。

ニミッツの記録によれば、アメリカ戦列部隊は、サンベルナルジノ海峡に達する前に、栗田部隊を叩き潰すため、南下中、ハルゼー長官は、更らにその内から、最優速の戦艦二隻、軽准三隻、駆逐艦八隻よりなる一隊を直率して突進したが、サンベルナルジノ海峡に達したときには、既に栗田艦隊は通りすぎたあとの祭りであった。これが、ニ、三時間早ければ、日没前更に、彼我艦隊精鋭の大決戦が生起していたことであろう。

(八) レイテ湾の実況と突入成果について

巷間、栗田艦隊がレイテ突入敢行したら、敵の反攻上陸を阻止挫折させ、戦局、戦勢の一転機をもたらしたであろう。海上にあるマッカーサー自身にも身の危険を与えたであろう。敵の主力輸送船団を撃破して、甚大なる損害を与えたであろう、と云々するものがある。米国側戦史による、二十五日におけるレイテ湾の実情は、次の通りでる。

「アメリカの主上陸は十月二十日に実施され、当面の陸上作戦に必要な弾薬、兵器、糧食等は十月二十四日までに揚陸を完了していた。マッカーサーは既に、タクロバン陸上司令部に移っていた。ただ、十月二十四日朝到達した第二増援の小艦艇約七十隻の大部の積卸しがすまず、二十五日の当日在泊していた。デュラグ及びタクロバンの飛行場は、二十五日の戦闘には、空母機の着陸場として使用されていた。(以上の情況は、我が方の推測とよく合致している。)オルデンドルフ指揮官は、キンケードの命により、全護衛艦隊(旧式戦艦六、重巡四、軽巡四、駆逐艦二一)を率い、レイテ湾東口に邀撃配備していた。」

さて、栗田艦隊がレイテ湾に向針した時の兵力は、前述の通り、戦艦四、重巡二、駆逐艦七、そのまま突入すれば、先ず湾口附近において、彼我艦隊間の決定的激戦が行われたであろう。この外、敵には我に対し、分派急行した機動部隊の一部(正規空母三、軽空母二)と、護衛空母群(護衛空母十数隻、其の一部と今朝来の遭遇戦)の支援あり、仮に、我が残存艦隊の精鋭が、三日問に亘る死戦を越えて、克く当面の敵を撃破し、間断なき敵艦上機の集中攻態を甘受しつつ、敵の輸送船団泊地に辿りつき得たとせよ、第二次増援の小艦艇―雑然と広大なる舶地に散在する敵を虱潰しに始末するとせよ、栗田艦隊全部を犠牲に供して、得る実質的戦果如何程か、又先に述べたような敵反攻上陸阻止、又は当時の戦勢の一大転換云々の言が当るや否や推察するに難くない。

かくて栗田艦隊は、シブヤン海より新南群島に立ち寄り、燃料補給後、修理の為呉軍港に帰投した。この帰投途上、台湾海峡において夜間敵潜の雷撃を受け、三戦隊旗艦(金剛)が一瞬にして火焔天に達し、轟沈の悲劇に出会った。

() レイテ沖海戦随想

() この作戦は、参加兵力の大なること、作戦地域の広大なること、戦闘時間の長さにおいて、太平洋作戦中の最たるものであった。しかし、これはミッドウェイやマリアナ沖の二海戦の如く、彼我互角の立場で堂々勝敗を争った全力決戦ではなかった。さきの二海戦の敗戦により、機動部隊―空母兵力の潰滅は、我が海上兵力をして決戦兵力たるの資格を完全に喪失させてしまった。

レイテ沖海戦当時日本側の戦力、特に航空戦力はがた落ちに落ち、アメリカ側戦力は最高度に練成されていた。日本側は艦縁決戦に成算を失い、いわば特攻作戦にも等しい様な作戦により、当面の危急を救わんとした窮余の作戦であった。日本側は、あらゆる悪条件を甘受し、兵理を超越して死地に飛び込んだのである。たとえ、作戦が順当に進んでも、おびただしき日本側の損害が出ることは、戦わずして既に明白であったのである。

素人は別として、この海戦の結果、日本側の一力的敗戦は、玄人にとって何の不思議もない。寧ろアメリカ側が本作戦の成果を誇張するのは、余りにも大人気ないどころか、却って幼稚さを覚える。本作戦のねらいの一つが始

めから、いまさらこの段階で決戦兵力たらざる我が水上兵力を温存することは、無用の長物、足手まとい、対外的な言いわけ―むしろこれを潰しても、外への面目をたてる―と云うような考えがあったとすれば、又何をか云わんや、である。若し当初から艦隊特攻作戦を企図するなら、その作戦指導においても、執るべき手段を執りつくされるべきものでなければならぬ。

又この時機、この地点において、かかる全般作戦指導を執ることが果して適切であったか、別の高度の立場から検討されるべき問題もあるであろう。

 

() 「チャーチル」のレイテ沖海戦批判

「チャーチル」は其の回想録で次のように語っている。

「栗田の頭が出来事の圧迫により、混乱を来したことはあり得る。何しろ三日にわたり絶え間なく攻撃され、重大な損害を蒙り、旗艦はボルネオ出港するや否や沈められている。斯の如き同様な試練を経験した者だけが、栗田を審判することが出来る」

 

() 栗田艦隊が出撃から三日間、戦場引きあげまで終始、牽制協力の機動部隊からは何等の情況連絡なかったこと敵機動部隊所在の虚報にわざわいされたことは、併せて大きな不運であり、過誤であった。

 

() 戦後いろいろな戦記ものがはやっている。私も国会でも暇になったら、歴戦参加の当事者―幕僚として、実相を書こうと考えぬものでもない。他人からもいろいろ勧められるけれども、まだ其の時機でないと断っている。今まで多くを語ることも好まず、書きもしなかったが、始めてクラス会に寄稿した。

しかし、いろいろ戦記ものを見てみると、反戦的立場から、旧軍―自衛隊への反感から、週刊誌的興味本位から、時流に迎合的立場から等、さまざまあるようだ。中でも功を誇り、自己の立場を擁護、売名、人気とり的な意図で粉飾されたもの、省みて他を誹謗するようなものもあることは、誠に不快を感じさせられる。

レイテ沖海戦に関する読みものも、或は前述の郎に類する様なもの、また、的はずれのものも少なくないようだ。

伝統の水戸精神に育ち、古武士―水戸武士的風格の栗田艦隊長官、不言実行の海軍の典型的武将、誇らず、弁解、言い訳せず、顧みて他を語らざる其の人、また、これを補佐した、明徹、慎重、熟慮断行型の小柳参謀長その人が誤りなく後世に伝えられることを希望してやまない。

 

(5) 戦艦大和の防禦力

呉で大和が入渠して丸裸になった時、驚いた。艦首の左舷に、直径三米近い大孔があいていた。レイテ沖戦闘中、至近弾の爆撃により損傷したものと思われる。あの激しい戦闘中、何時の時であったか、全然気がついていない。

しかも三十節の全速運転に何の支障もなく、艦体の振動すら感ぜず入渠して始めてわかった。流石に帝国海軍の誇った、最後の戦艦七万五千頓の防禦力には感心した。

 

() 大和主砲十八吋砲の対空戦闘威力

十月二十六日帰路、シブヤン海を抜けて、敵艦上機攻撃圏外にでた時、B−一八型陸上大型攻撃機六機か九機編隊の高々度(一頓爆弾)爆撃尊大和に受けた。敵機発見後、主砲を以って対空射撃するも、遂に敵の爆撃前には命中効果なし、被爆至近弾にて戦闘艦橋で私の傍に立っておられた参謀長重傷、大和艦橋など上部構造物損傷、其の直後、十八吋主砲対空弾が、三機編隊の一群に命中、あっと云う間に編隊の三機こなみじんになり、真っ黒のかけらとなって、雨の降るように、ばらばらと落ちて来た。命中は、おそまき乍ら流石十八吋砲弾の散布効果と驚かされた。

 

() ふんだりけったり、航空部隊の誤爆

十月二十五日、いわば袋だたきにあいつつ、北上策敵中、午後四時すぎ、北方より南進中の爆撃機編隊十八機か二十余機の進撃を発見した。これが、レイテ沖海戦中みとどけた、唯一の味方航空機であった。

恐らく、朝来の敵機動部隊攻撃に向うものと大いに成果を祈っていた処、我が艦隊の右舷、上空を通過後、遥か南方より反転して、また味方艦隊に追ってくる。どうも様子がおかしい、或は未熟の攻撃隊で、敵味力を間違えているのではないか、かつて戦艦大和を見たことがないであろう・・・・・・おかしいなと直感するや否や、直ちに、探照灯で「我味方なり」と識別信号させる。又、大和の前甲板に大の日の丸をひろげて、味方識別するも、さっぱり反応がない様子。その内に全機次ぎ次ぎと急降下爆撃態勢をとり、大和めがけて爆弾投下した。

味方である故、こちらは爆撃されると解っても、対空砲火で打つわけにもゆかない。回避運動でこれをよけるのが精一杯、外に手の下しようがない。

連日悪戦苦戦のはて、最後には味方機からまで急降下爆撃のおまけ、まさに、ふんだりけったりとはこのことと、憤慨するも処置なし。

敵か味方か識別出来ない位の攻撃隊の練度故、幸にして爆弾も皆海中に投じ、一発の命中弾も至近弾もなかったことは、まさに不幸中の幸であった。

開戦前更に一段作戦当初から、基地及び母艦航空部隊に在って、その練度を熟知する私から見れば、航空戦力も落ちに落ちたものだと、全く感慨無量、今や戦局日に利あらず、たのむ航空部隊の実力の現実を見せつけられ、前途暗たんたる思いをさせられた。

 

() 前戦から大本営へ

昭和十九年十二月初旬、まる三ヵ年につづく第一線部隊より、大本営参謀、米内海相の下に海軍省副官を命ぜられ、呉で戦艦大和を降りた。新しく着任の山本祐二先任参謀と、これがこの世の最後と握手して、大和の舷梯を降りた。後に、沖縄作戦にて、新長官と共に戦死した。

山本先任参謀は昭和三年出雲にて遠洋航海のときの、候補生指導官付として、我々とは因縁浅からざる間柄、全く感無量である。

後に、私が靖国神社事務総長時代、山本参謀の遺児さんが、アメリカ留学中、母なる未亡人に書いた、「ママさん、今日は」の一編が、ベストセラーとなり、私も多くの遺児や未亡人の激励の一こまに、この書物を紹介したり、又、山本未亡人を日本遺族会婦人部未亡人に紹介するようになったことも、つながる不思議な縁を覚える。

以後、海軍省において米内海相につかえ、戦争終結、昭和二十一年六月、復員省退官に至るまで、終戦処理にあたった。

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