TOPへ  56目次

一、大和特攻作戦の経緯について

三上 作夫

米軍が慶良間諸島に上陸を開始したのは昭和二十年三月二十三日であった。これで米軍の沖縄攻略企図が明確になってきた。これよりさき連合艦隊司令部は南西諸島方面に敵来攻の場合の作戦方針を定め、これを天一号作戦と呼称して、三月十七日に発令した。敵は沖縄本島攻略の前哨戦として日本本土、南西諸島、台湾方面に熾烈な航空攻撃を繰り返し、我が航空兵力の漸減、航空基地の破壊、海上兵力の撃破、軍需工業能力の弱化等に重点を指向し、我が縦深戦力を無力化して、沖縄上陸を容易にする作戦に出て来た。敵が沖縄上陸に成功し、ここを作戦拠点として海空より我が本土に攻撃を反覆すれば、本土の潰滅は火を見るよりも明かである。それ程沖縄は戦略上の要点である。特に大艦隊を収容し得る泊地を持ち、大航空基地を造成し得る陸正面を持っている。敵航空機の度重なる来襲により、我方は甚大なる被害を蒙り、特に九州南部に展開していた我主力航空兵力たる第五航空艦隊は三月下旬遂に潰滅寸前の状況までに追い込まれた。そこで連合艦隊司令部は第三及び第十航空艦隊すなわち戦力練成中又は練習航空部隊の兵力も挙げて沖縄作戦に投入するに決し、その大部を九州方面に展開して、宇垣第五航空艦隊長官の作戦指揮下に入れ、最後の航空決戦を挑むこととなった。

この場合、大和を基幹とする捷一号作戦の残存海上兵力たる第二艦隊を如何に効果的に使用するかについて慎重に考慮された。捷一号作戦の戦訓に徹するまでもなく、航空部隊の支援を得られない海上部隊は敵機動部隊の前には殆んど無力に等しいと言っても過言ではあるまい。逆にその用法次第によっては、我が航空部隊の作戦を有利に展開することが出来るのである。その第一は、海上部隊を敵上陸点に一昼夜航程附近の要点に進出待機せしめ、機宜行動の気勢を示すことに依り、敵に脅威を与え、敵をしてこれに対処するための作戦を強要し、好機航空部隊を以て側面攻撃を加える方策である。

具体的には第二艦隊を対空防備比較的厳重な佐世保に進出せしめ、好機出撃の気勢を示すことにより敵機動部隊を誘致し、我が南九州展開中の基地航空部隊を以て、敵に奇襲又は強襲を敢行し敵を漸減する戦法である。その第二は、我が航空作戦が有利に展開し、海上部隊の洋上進出可能な状況下に、敵攻略部隊の撃滅又は陸上作戦支援作戦を強行する方策である。即ち我が航空作戦が奏功し、敵機動部隊が避退するの已むなきに到った時に、第二艦隊を敵攻略部隊撃滅のため洋上進撃させる方策である。その第三は好機陸海空の全力を一挙に投入し、短期決戦を挑む方策である。

即ち菊水一号作戦(四月上旬の基地航空部隊の決戦)並びに第三十二軍(沖縄所在の陸軍兵力)の反撃作戦に呼応して、第二艦隊を洋上進撃せしめ、陸海空決戦兵力の全力を一挙に敵上陸正面に集中し、敵を撃退する方策である。

敵は沖縄上陸にさきだち、我が沖縄所在部隊の無力化方策として、機動部隊及び攻略部隊を沖縄周辺に集結し、数日間陸上砲撃及び対地爆撃に専念し、暫く我本土に対する航空攻撃を弱化した。我としては沖縄所在部隊を間接に支援する為にも、敵機動部隊の沖縄に対する攻撃を本土方面に吸収し、好機敵機動部隊を撃破するを有利と認め、三月二十八日第二艦隊の佐世保進出を発令された。たまたま敵機動部隊が南九州に接近来襲する状況となったため、第二艦隊の佐世保進出は中止された。第五航空艦隊は最後の一滴までも絞り出す体の航空戦を実施したのであるが、敵は四月一日敢然沖縄に上陸したのである。

既に述べた如く、我方は全航空戦力を結集してこれに対処する方策を採ったが、それには先づ作戦思想の統一と、作戦要領の打合せ竝に作戦兵力の移動集中が必要なのである。従来の経過に徴しても、航空部隊の再編集中には想像以上の日子を要するのが常である。草鹿連合艦隊参謀長は、作戦打合せのため四月二日鹿屋に行かれた。私は参謀長に随行した。寺岡三航艦長官、前田十航艦長官を併せ海軍航空部隊最高首脳部を含めた会同であった。私は日吉司令部との連絡に任じていたが。四月突如神先任参謀より次の連絡があった。「本日軍司令部総長が陛下に作戦奏上の際、海上部隊の作戦能力について御下問があった。総長は恐懼して御前を退下し、只今軍令部と作戦に関し打合せ中であるが、大和部隊の沖縄突入作戦が計画されることになるであろう」と。その後数回連絡があったが、就中燃料問題につき軍令部からきびしい制圧が加えられた点が強く印象に残っている。連絡事項は逐一草鹿参謀長に報告したが、本作戦につき積極的意見又は反対意見は述べられなかった。五日には片路燃料で作戦決行のことに軍令部、日吉司令部間で合意に達し、作戦命令が日吉から発令された。私としては日吉司令部及び軍令部の大和特攻作戦実施に伴う詳細な雰囲気は承知していないが、神参謀からの連絡でその大要を把握することが出来たのである。私は神参謀に対しこの作戦が成功の算殆んどなく、むしろ本作戦には消極的意見であることを述べたが、これ等は充分考慮の上、大局的に海上部隊の死所をここに求めるという日吉司令部の決意が堅かったので私はそれ以上反対しなかった。勿論草鹿参謀長もことここに到れば已を得ないとお考えになっていたと思う。五日作戦決定に伴い、六日草鹿参謀長と私とが最後の作戦打合せのため大和に行くことになった。私は許されれば大和特攻作戦に参加しようと決意して、身の廻りを整頓し沈思黙考しながら静かに五日の夜を明かした。明くれば六日参謀長と私は大和に到着、長官公室に於いて、第二艦隊首脳部と直ちに打合せに入った。草鹿参謀長より作戦計画発動に伴う経緯について説明された。伊藤長官は作戦目的とその見透しについて質問されたが、草鹿参謀長からは、最後には沖縄上陸正面に突入陸上に切り込む計画だとはさすがに明言されなかった。しばし席が白らけて来たので、私はここで発言すべきかどうか一瞬ためらった。遂に意を決して最後のくだりを申し上げたのである。伊藤長官はそれでよく分ったと申されたきりで会談は終った。間もなく主要幹部の集合した部屋で、伊藤長官最後の訓示があった。極めて冷静に作戦目的と使命を訓示せられ、艦隊将士の奮戦敢闘を望まれた。解散して大和を辞去する直前、軍令部作戦課時代心からの御指導をいただいた山本第二艦隊先任参謀に「是非大和に乗せてつれて行って下さい」とお願いした。ところが即座に「連合艦隊司令部から督戦されなくても第二艦隊で充分やる」と相当語気荒く申された。私も已なく翻意して、草鹿参謀長と共に大和を辞去した次第であるが、誠に後髪を引かれる思いで一足一足が鉛のように重かった。

もともと私は大和部隊の用法としては第一方策を最上と信じ、これを上司に献策して同意を得ていたのである。当時実施部隊の実情として、基地航空部隊は再編の最中なので、敵の沖縄上陸直後の浮動状態を反撃するには戦力誠に不充分であった。また沖縄首尾の第三十二軍も自主的に四月七日の総反撃を企図していた情況ではなかった。結果的には、大和部隊は無傷の敵機動部隊に、味方の航空援護皆無の状況で突き当り、孤軍奮闘しなければならなかった。

この作戦が日吉司令部で突如として計画され実行に移されたので、鹿屋に居た私としては力及ばなかったとはいえ、作戦を担当する参謀として誠に申訳がないと思っている。本特攻作戦で戦死された一九八名の英霊に対し心からお佗び申し上げると共に御冥福を祈り、新生日本の将来に御加護を賜わらんことをお願いする次第である。

TOPへ  56目次