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第三回戦闘機会

飯野 伴七

 第三回目に当たる会は昨年秋江田島クラス会との重複を避けて延期し七年五月二十四日ー二十五日関西の宝塚に於いて開催された。一月十七日の阪神大震災の被害状況によっては開催が危ぶまれたが、懇親会場引受の河野邸も無事、又宝塚大劇場の復旧再開も見通しがつき、河野・石井両地元幹事の大変な努力とユニークな発想企画で宝塚大劇場観劇を組み入れ、夫人同伴の参加を呼びかけ夫人五人、妹一人の参加者あり総員二十二名が参集した。客員参加者泉五郎夫妻、渡辺望が加わり渡辺から阪神大震災被害の模様、72期の救援活動状況が報告された。

二十四日の総会・懇親会場は幹事役河野の好意で同邸一七三〇ー二一〇〇迄 河野の挨拶、恒川の会計報告等あり、総会を終り地元石井幹事が司会進行を担当し、円形阜に盛られた料理を前に乾杯、その回りの円形座席に着席総員の顔が互に見渡せる格好の会場で、戦時中の略歴、想い出等各自順次申告あり、始めて披露する事項、又勇戦奮闘の場面あり、よ

くぞ生き残ったと感心する次第で夫人連の共感を得た。竹内茂夫人あい子さんより夫君の戦後生活と療養中の近況報告、海軍がとりもつ現代博多人形師との親交が語られ、今回の

fc宝塚大会では夫君の「河野邸を見学し撮影して来ること、宝塚観劇を楽しんで来い」との一言で、竹内の妹さんと二人出席しましたとの話あり、宝塚ホテルチェックイン時間一杯

迄盛り上がり、途中より河野二世慎一郎君夫妻も加わり宝塚歌劇出身の若夫人のプロの歌唱に聴き入り、例年のfc会員の出演出撃風景は時間切れと共に見られなかった。最後に林、

立って来年の開催地を群馬に設営する旨表明して、ホテル行と河野邸宿泊六人と別れ一日目の会を解散した。

河野邸は宝塚市中山桜台の上段、伊丹の大阪空港滑走路が見える見晴しの良い角地に建てられ総二階、設計に艦の構想を取り入れ、長いデッキを渡って懇親会を開いた円形の館

が艦橋(ブリッヂ)、家の一階中央に舷窓をアレンヂした応接室、河野の執務机もある。

 翌二十五日は〇九〇〇より宝塚ホテルで朝食、都合で帰る者数名と別れ散歩がてら川の道を通り宝塚大劇場へと向かった。大劇場は今度の大震災で被害を受けたが二ケ月程で修復し雪組公演が開かれて居った。大実業家小林一三翁の構想の大輪の花、東の歌舞使、西の宝塚と言われる所以であり、海軍とは色々と誼み深く宝塚音楽学校の教育方針にも取り入れられて居るとか。現在の理事長小林公平氏は海兵七十五期であり、河野の申入れに快諾の上便宜を計ってくれた由、

「殿方も是非宝塚を見て欲しい」と言って居る。大劇場改築も終わりその全景は艦を摸して入口の方がバウルーム(濶潤jと呼ばれ奥の方に向かってデッキを歩き艦橋に至る構造と

か中二階に創立者二二翁の胸像がある。

一一〇〇開演、演目は″ジョンFケネデー”若き日の海軍士官から大統領へ そして一発の銃声に倒れる大悲劇の終結で、華やかでテンポの早い演出は我々男性老人組にもよく筋が分った。次いでミュージカル歌と踊りの競演、若さ、艶かさ、エネルギッシュと三拍子揃い我々を青春に引き戻してくれた。特にこれあるが故に参加の夫人連は顔をほころばして大満悦であった。一四〇〇閉演、観劇に興奮大満足の面々はお互い健康で再会を期して一五〇〇解散夫々の帰途についた。

(参加者)25名 氏名掲載略