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平成十年なにわ会年末クラス会記

山下 茂幸

 年末クラス会は、たまたま五十八回目の開戦記念日と重なり、十二月八日のマスコミの取り上げかたは、少なかったように思うが、我々にとっては何か因縁を感じさせるクラス会となった。ただ一人教官として、ご出席下さった、柳田教官をはじめ、会友の後藤寛君や、紅一点の村山玲子様(隆君夫人)を含め合計八十九名の出席を得て、品川パシフィックホテル東京で行われた。

 クラス会に先立ち、次期幹事の出席を得、最終打合せの幹事会を、十一月十一日に行った。平成九年の方式を踏襲することを原則として、年次総会は別室で済ませ、懇親会場の着席位置は、特に指定せず自由とすることなどをはじめ、受付は、兵科は二ケ所、機関科・経理科はそれぞれ一ケ所の窓口とし、三名一組で、受付事務は担当することなどを申し合わせた。

 会は一二〇〇に始まり、戦没者・物故者への黙祷が終わり、原田代表幹事は「平成十年一月から七月にかけては、安元教官をはじめ、海兵五名、海機二名の計八名の方が亡くなり、暗いニュースが多く、なかでも、平成九年から引き続き幹事を引き受け、運営の相談役と期待していた藤田 昇兄の急逝は、発足当初の二月であったから、幹事一同の受けたショックは大きかった。しかし一名減の四名でがんばり、何とか本日を迎えることが出来たのは、会員諸兄の思いやりあるご支援と、前年度幹事諸兄の、きめ細かい申し継ぎがあったお陰で、大変運営がやりやすかったことを幹事一同は深く感謝申し上げる」と、挨拶した。

さらに、「年末クラス会案内状の返信を通して現況を見ると、発送数二五二通に対し、出席者は八九名(三五%)で、欠席理由のなかに、体調不良のものは三六名(一四%)心臓関係五名、脳血管関係四名という数字が得られた。そのほかに累積疲労が、からだの何処かに現れているのではないかと思われる会員数の、増加傾向が感じられた。生活習慣の改善工夫と運動を心掛けられるよう切望する。」と述べた。

 ご遺族については、昨年は十九名のご母堂へ、近在クラスの者が暑中見舞晶をお届けして、大変に喜ばれたが、皆様九十五歳を越えられ、直接はお目にかかることが難しい場合もあり、ご家族も大変にお気遣いをされることと、訪問者も暑い最中で、労力を使うことなどの事情が、その後のお礼状や報告状から読み取れた。戦後五十余年を経た節目としてお届けしたが、今後は郵送する旨を暑中見舞い品に鄭重な書状を添えて、ご遺族のご了承をお願いした。また、持参者にもこの旨を連絡した。

 対外関係としては、水交会主催による各クラス幹事の月例参拝は、水交会が厚生・防衛両省庁共同の管理財団法人となったことから、平成十年五月以降は、靖國神社参拝の次に、

千鳥ケ淵墓苑と市ヶ谷の自衛隊内にある自衛隊殉職者慰霊碑へのお参りが加えられることとなった。また、平成十年・十一年の二年間の理事には伊佐弘道兄に留任をお願いした。

  靖国神社は来年の創建百三十年にあたり、従来の奉賛諸団体を統一し、「靖國神社崇敬奉賛会」として平成十年十二月十七日に、設立総会を開き正式に発足した。

 柳田教官からは「毎年招かれ、元気な諸君と顔を合わせる事の出来るのは同慶の至りです。特に、三校合同のクラス会は誇るべきことである。今日は開戦記念日であるが、私は五十八年前のこの時には、兵学校の教官をしており、未だ二十五歳の独身で、当時のことはよく覚えている。」と述べられた。戦功のあった同期の人々が羨ましかったなどと、思い出話もされた。「しかし、今では身体も若い頃のようには動かず、ゴルフもそろそろやめることも考えている。君達の七年先の姿が、現在の私だということを知って貰い、毎日毎日を大切に過ごされるよう希望する」、と結ばれた。

 平成十年三月の名簿改訂に当たって、掲載内容の充実や各方面の意向を盛り込み、活用法にも配慮して、親しみやすく使いやすいように工夫し過ぎたためか、校正ミスも多く発生したなどの苦労話が、縮集を担当した鈴木 脩君から披露があり、最後に「今後、本人に万一の事が生じたときに、必ず誰かに連絡出来る体制だけは整えておいて欲しい」ということが強調された。

 次いで、来年度幹事(兵)森園良巳、上野三郎、原田種睦(留任)、(機)山下武男、(経)阿部克巳の諸兄の自己紹介と挨拶が行われた。

 席を「藤波の問」に移し、司会・進行担当の金枝君の開会のことばで開宴となり、柳田教官の音頭で乾杯をおこない、打ち解けた雰囲気のなか懇談に入った。予約時間一杯まで

歓談は続いたが、宴も一区切りついたところで、後藤俊夫君の歌い出しで「軍艦」を斉唱し、伊丹から参加の渡辺 望君の音頭で、なにわ会万歳を三唱し、閉会のことばは山下幹事が述べ、明年の再会を期し家路についた。