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92号

平成十六年度なにわ会年末クラス会 記

林 藤 太

 

 

十七年度幹事 左から 若松、左近允、向井、相澤、野崎、阿部

「光陰矢のごとし」「歳月人を待たず」と言われるが、「歳月また老化を待たず」の咋今です。昨年の年末クラス会で幹事をお受けしてから早や一年、恒例の慰霊祭も半年前に無事終了、幹事諸兄並びに会員各位のご支援ご教示と友情のおかげで、大過なくお役目を終える事が出来ました。

思えば今年は、国内外、正に多事多難の年でした。未曾有の台風による全国各地に及ぶ大災堂『新潟中越地震の悲惨さ、凶悪犯罪の増加、拉致事件の未解決、景気の低迷など。

海外では、北朝鮮や中国問題、イラクをはじめ欧州諸国は出口の見えないままの泥沼状態、テロの続発等・・・・・一日でも早く平穏な安心して老後を過ごせる世の中になってほしいと祈る今日この頃です。

 間もなく新しい年を迎えます。平成十七年は、私たちが海軍将校生徒を命じられてから丁度六十五年、敗戦から六十年、更には大先輩が日本海開戦に大勝利して日本を世界の列強国にしてから満百年の大きな節目の年です。この記念すべき平成十七年を迎えるに当り、ご遺族をはじめ会員諸君及びご家族のご多幸を祈念してやみません。

 先日、月刊誌「現代」の十二、一月号を読みました。特集記事としての、作家保阪正康氏(本年度菊池寛賞受賞)の『六十年目の特攻隊論・・・・・・・「英霊論」と「犬死論」を越えて』には新たな感動を覚えました。

「特攻こそ崇高な行為であり、彼等の死があって戦後の日本の繁栄があつたのである。「犬死論」は特攻隊員の悲しみや苦しみを足蹴にして得意になっている非人間的捉え方ということだと思う。特攻記念館を見学に来た修学旅行生たちが、入り口では遠足気分なのに、出口ではハンカチで涙を拭いているそうだ。そんな話を聞けば、私とて涙を流してもおかしくないと思う。・・・・

特攻隊員として若くして散っていった戦友達の遺稿の「白い行間」を読み抜いて欲しい。「十死零生」を命じられて体当たり攻撃に出て行った彼等の胸中を正確に汲み取って歴史の中に定着させるべきだ。・・・特攻隊員の体当たり攻撃を讃美し続けるのは、戦後社会からすっぽり抜けてしまったナショナリズムそのものへの渇望ではないかと思える。

(最後に)・・・六十年目にして初めて、彼等の苦悩を自らの苦悩として受け入れる事が出来るようになり、彼等の凛とした素顔と対面出来るのである。・・・・」などと著者は書いております。

 さて、平成十六年年末クラス会は、恒例により十一月二十六日(金)一二〇〇からグランドヒル市ヶ谷にて開催された。一一〇〇には現幹事、来年度幹事揃って受付で会員を待つ。出席者は八十二名(氏名別記)昨年より七名の増は喜ばしい。ただ、柳田教官の御欠席は寂しかつた。

 

会は村山幹事の名司会のもと、まず壇上に高々と掲げられた軍艦旗に対し、「気を付け」  「軍艦旗に敬礼」  「直れ」 往時そのままが偲ばれた。続いて戦没者四一二名及び戦後没の友一五一名の御霊に対し黙祷。

 

次いで幹事を代表して若松君の挨拶があつた。(要約)

 「本年もあと一ケ月余となりました。六月に行った慰霊祭も皆さんのおかげで無事終了、感謝しております。また、戦没者のご遺族で北海直の川端格君の御母堂が一〇三歳で大往生を遂げられました。現在なお、百歳を越えてご健在の御母堂様が五名おられます。ますますのご健康をお祈り致します。

 

もの台風が上陸、各地に大災害を齎しました。その直後、新潟県中越地震に見舞われ、会員の中では太刀川君が被災され避難所生活をされているようです。寒さに向う折から、皆様にはくれぐれもご自愛のほど祈念いたします」。

 

 この度、案内状の返信に記された皆さんの近況に就いて、伊藤君の提案で配付資料にその一部を掲載しました。

 

 次に、来年度幹事が壇上に上がり、夫々自己紹介の後、代表して相澤君から挨拶があった。平成十七年度幹事は次のとおりである。

 (兵) 相澤善三郎 左近允尚敏 向井寿三郎 若松禄郎(再)

 (機) 野崎貞雄    (経) 阿部克巳

以上六氏のご健闘をお願い致します。

続いて一年前に亡くなつた中西健造君の夫人英子さんと長男夫人典子さんお二人が、わざわざ滋賀からおいでになり御礼の挨拶を述べられた。村山幹事より「なにわ会」会員の現状について説明、乾杯に移る。

 例年柳田教官にお願いしてきたが、御欠席のため和田幹事の挨拶と音頭により乾杯! お待ちかねの懇談に移る。

 閉宴の時刻も近づいてきたところで、会員有志より発言あり。(要旨)

伊藤正敬君  原稿、記事等は出来る限りメールを使ってほしい。

都竹卓郎君  連合クラス会及び記念誌について。

高松道雄君  富山在住の為、なかなか出席できなかつたが、出てきて見て皆老けたなあと感じて話し始めたら、昔の面影が髣髴として懐かしさ一入。

池田武邦君  沖縄戦で負傷、二十年四月佐世保の病院で見た大村湾の美しさに感動、し長崎を永住の地と決めた。

一四〇〇村山君の発声により軍歌「同期の桜」を斉唱、来年六月三日の慰霊祭で元気に再会できる事を祈念して散会した。


参加者名簿

兵学校59名 会友3名 経理学校8名
安藤 昌彦 岸本 一郎 多胡 光雄 堀 剣二郎 岩松 重裕 阿部 克巳
足立 英夫 小灘 利春 高松 道雄 間中 十二 後藤  寛 神林  勗
足立 之義 小林  勝 都竹 卓郎 松下 太郎 藤瀬 郭囲 窪添 龍輝
(妻)玲子 後藤英一郎 辻岡 洋夫 溝井  清 機関学校10名 高杉 敏夫
阿久根 正 後藤  備 出口 勝己 向井寿三郎 片山  勇 高田 俊彦
相澤善三郎 後藤 俊夫 東條 重道 森園 良巳 金枝 健三 深尾 秀文
旭  輝雄 幸田 正仁 豊廣  稔 矢田 次夫 蔵元 正浩 槇原 秀夫
伊藤 正敬 左近允尚敏 名村 英俊 山下  誠 佐丸 幹男 吉江 正信
池田 武邦 佐藤  静 中井 末一 山田 良彦 野崎 貞雄
泉  五郎 笹川  勉 中川 好成 山田  良 三澤  禎  遺族
(妻)才子 柴田 英夫 林  藤太 山根眞樹生 村山  隆 中西 英子
市瀬 文人 渋谷 信也 原田 種睦 横田 敏之 (妻)玲子 (建造の妻)
浦本  生 定塚  脩 樋口  直 和田 恭三 室井  正 中西 典子
岡本 俊章 新庄  浩 平川  進 若松 禄郎 山下 武男 (建造の長男の妻)
門松 安彦 杉田 政一 宝納 徳一