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94号

 

軍人勅諭返納記

堀 剣二郎

 

 

駆逐艦浦波の艦長休憩室は艦橋後部に隣接しており、そこに軍人勅諭(以下御勅諭と称す)が壁に掛けて奉置されていた。御勅諭は墨書せられ、最後には睦仁の署名と鮮やかな紅色の御璽が押されていた。浦波は昭和四年に竣工し、戦闘部署・内規には、その取り扱いについて、総員離艦の際には、操舵長が背負い、航海長が付き添うことに定められていた。

 

昭和十九年十月二十六日早暁レイテ島西岸のオルモックへ巡洋艦鬼怒と二隻で陸兵を揚陸後マニラに向ったが、米軍機約五十機と対空戦闘後沈没。内規に従って、御勅諭を背負った操舵長に付き添い約七浬にある島目指して泳ぐこと約一時間。我が特別輸送艦に救助せられ、翌日マニラ着。他の生存者と共に城内の寺院に約十日間起居するうちに、生存者中の最先任となった私が御勅諭返納に当たることになり、十月四日出港の巡洋艦青葉に便乗して高雄に向かい出発した。同行した艦は巡洋艦熊野と商船一隻、青葉も熊野も損傷艦で最大速力十二節、護衛兵力は駆潜艇一隻、ルソン島西岸の航行は水深の限度迄の接岸航路がとられ、外側に駆潜艇が配された。この船団に対する米潜の魚雷攻撃は猛烈であった。快晴の白昼に駆潜艇の外側から魚雷発射が繰返され、私の記憶では四本一組の雷跡五組が認められた。この戦闘は左近允君が書いた「巡洋艦熊野戦記」に詳しい。魚雷の中には海岸で爆発して岩礁を吹き飛ばすものもあった。この対潜戦で熊野は被雷、マニラに回航し、あとの二隻は北上を続け、その夜は、リンガエン湾に仮泊した。青葉は蒸化器を損傷していたため、この機会に真水を搭載した。

 その要領は陸地にある真水を住友商事の保有する未使用のドラム缶に積め、陸上を約二十分転がして、浜で陸軍提供の大発に積み、停泊中の青葉へ輸送する方式で、ほぼ一日中行われた。私は副長から浜辺で搭載の指揮を行なうよう指示され、一夜浜辺で焚き火をして過ごした。この停泊中、リンガエン湾中の入り口東側にあるサンフェルナンドにクラスの蒲地君を訪ねた。水偵部隊の隊長で現有兵力の一機をマングロープの木で覆って係留していた。最初は六機いたが、今は一機、それでも隊長だと言って意気軒昂たるものがあった。

 彼はその後、内地転勤の際、檜に便乗中戦死したとのこと、江田島という写真集の表紙に彼が蛸を差し上げている写真があったのは忘れられない。

 

その後、青葉は高雄に入港。高雄から巡洋艦鬼怒の御真影を奉持する同艦機関長広岡少佐と同行することになった。広岡氏は特進の少佐であった。各科とも特進する人は非常に少なく、心技体とも優秀で各人に逸話が語られていたようである。広岡氏については、名前も知らなかったが、温顔であるが、頭脳明晰なことは、話しぶりから伺われ、また、背が高く、立派な体格でスポーツはテニスをやり、艦隊で優勝したことがあると話された。  家庭のことについては、男の子が二人あり、どちらも野球が好きだと話されたが、弟さんの方が巨人軍の広岡選手になったと後になって分かり、なるほどと頷いた次第。

 

高雄では一晩武官府に御勅諭を預け、翌朝受け取り鉄道で台北に向かった。乗車は白線の一等展望車で、ホテルの気分を味わいながら台北へ到着、駅では駅長が出迎え、御真影到着のアナウンスで衆人最敬礼の中を貴賓室に案内され、暫時休憩の後、武官府差し回しの車に乗り、武官府へ赴き御勅諭を預けて後、二人で旅館に一泊。翌朝飛行便で上海経由福岡へ。福岡から鉄道で呉着。副官室へ出頭、御勅諭返納の旨を届けると、「これを参考にしたまえ」と出されたのが衣笠(昭和十七年沈没)の始末書であった。私は「昭和十九年十月二十六日の戦闘において、艦沈没のため汚損し恐懼(きょうく)に堪えず」と書いて提出した。

(後記)

 駆逐艦に御勅諭を奉置する件はいつから始められ、いつ取り止められたか、海軍例規でも調べるか、宮内庁にでも聞けば、判ると思うが、それほどする暇も無いのが現状である。

 衣笠の提出者が艦長、副長でなく、高射指揮官とか書いてあったので、戦死者多数のためかと思われるが、機会があれば聞いて見たいと思う。

 広岡さんも、私も次の配置が決まらず、つきが落ちたような気分の時だったので、いろいろ話をし、楽しい思い出となった。

 広岡さんのあだ名が「天皇」であったとあとから聞いて、何でも出来る人だったのだと分かった。

 特進の人の逸話で思い出すのは、特進水雷の三沢少佐で、私の亡くなった家内の友達が三沢さんの次女で仲良しであった関係から、お会いしたことがあるが、終戦後、水雷科の特務士官に聞いた逸話に次のものがあった。

 「三沢氏が高等科学生に講義していた時、学生に英語で野次られたところ、英語の方がよければと言って英語で講義をされ、学生が謝ったという。」