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94号

左近允尚敏の戦争余話

 

 左近允尚敏君は海上自衛隊幹部学校の機関紙「波濤」に「太平洋戦争余話」と題して寄稿している。その十七年十一月号と十八年一月号の中からいくつかを紹介する。

一 運、不運

 a 長崎原爆

このときの第一目標は小倉であったが、投下機が小倉に来たとき、前夜のB-29、二一一機による焼夷弾攻撃を受けた八幡から立ち上がる煙が小倉上空を覆い、目視投下が出来ないので、長崎に目標を変更した。数万の長崎市民が死に、数万の小倉市民が死なずにすんだ。運命をわけたのは前夜の八幡に対する爆撃であった。

 b 蛙跳び作戦

   米軍は当初のラバウルを攻略する計画を変更し、ラバウルをとばしてニューギニアに向った。ラバウルの玉砕はまぬがれた。

 c 比島と台湾

   米軍は比島を攻略し、ついで沖縄に向った。台湾にあった数十万は助かった。

二 被雷沈没

   潜水艦の雷撃で沈んだ艦

  戦艦が金剛、空母が大鳳、翔鶴、信濃、雲龍、大鷹、雲鷹、冲鷹、神鷹、

重巡が愛宕、摩耶、足柄、加古、

軽巡が天龍、龍田、球磨、多摩、大井、長良、五十鈴、名取、夕張、阿武隈

 そして、前記澤本君の信濃の例が書かれている。

三 一撃講和論 海軍のクーデター

前述のとおり

四 戦争の呼称 四四頁のとおり

五 ご真影と軍人勅諭

   軍艦にはご真影があった。二期先輩の青木主計大尉は次のように書いている。

「加賀が被爆し大火災を起こしたとき、H主計少尉は艦橋から、艦底の奉安室に降りる途中で戦死したらしいと伝えられた、ミッドウェー海戦でも蒼龍のU君と加賀のH君が戦死した。

   任務とはいえ、両陛下のお写真を持ち出すため、尊い一命を失うということは、今後長く続くであろう戦争の前途を考えて釈然としなかった。海軍経理学校三年間の教育が無になった悲しさと悔しさが今もこみ上げてくる。」

   同感である。海軍にも、随分と不合理なことがあったものだと嘆かずにはいられない。昔の熊野の手記をよみかえしたら、「星子内務長と平山高射長は空路東京に向うという。ご真影を海軍省に納めるためである」とある。だれかがちゃんと持ち出していたのだ。

   駆逐艦や潜水艦にはご真影はなかったが、軍人勅諭があったらしい。十三年前に貰った堀剣二郎君からの手紙にこう書かれている。

「小生、浦波にご下賜の軍人勅諭(睦仁の署名あり)を昭和十九年末、呉鎮守府副官室に返却の際、次のような始末書を書いた。

始 末 書

昭和十九年十月二十六日の戦闘において、艦沈没のため汚損し恐懼(きょうく)に堪えず

浦波航海長 海軍中尉 堀 剣二郎

 

これは艦の沈没に対する公式に行なわれた譴責(けんせき)の唯一のものである。しかし現在に至っても艦の沈没に対して、天皇、部下、国民に謝罪する気持ちは、この始末書のまま私の中に生きている。私が浦波の最高責任者になっていたことを知ったのは、輸送艦に救助された後で、私より先任者が全部戦死してから数十分か数分の間指揮官だったことになるが、それにしても指揮官であったことに変わりなく、その名誉に伴う責任を感じているものである。私にとって、浦波は『沈んだ』のではなく『沈めた』ことになる。」

私は譴責とか始末書とか、勇戦敢闘して乗艦をうしなった艦の責任者に何たる仕打ちかと憤慨したが、堀君のこの気持ちには深い敬意を抱いている。