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96号 


京都ネイビィセブンティ会10周年記念

編集部

 

 

 桂 理平君が代表幹事を務める京都ネイヴィ・セブンティ会(KNS会)が10周年を迎えて記念誌を発行し、一部送付を受けた。

その中から、なにわ会会員の投稿の要約を転載する。

 


運命の岐路と傘寿の人生観

桂   理 平

  

 長い間生きてきた歳月を振り返ってみると、自分の力の及ばない運命によって、生死の危機を乗り越えた事に気が付くのである。戦時中に体験した運命の岐路を思い出してみよう。

1 昭和191025日、私は小沢艦隊(囮部隊)の1艦である空母瑞鳳の見張士(中尉だった)として参戦した。0800から始まったエンガノ岬沖海戦は圧倒的に優勢な敵飛行機の攻撃により、僚艦瑞鶴、千歳は撃沈され、千代田は航行不能になり、最後まで残った瑞鳳も留めの魚雷1発を艦橋下に受けて、1526頃沈没した。

1400頃、損害により低速力となり右に傾いた瑞鳳の左舷中央から少し前方のメインマストに掲げた戦闘旗(軍艦旗)を目掛けて、F6F戦闘機が1機ずつ機銃掃射をして来た。

 私はメインマストに近い飛行甲板の右サイドの短い狭い見張甲板で闘っていた。敵機の機銃掃射の弾痕を木張りの飛行甲板に見た時、私の2m以内にいた下士官が弾丸に当りもんどり打って倒れ即死したが、私は掠り傷も負わなかった。一瞬の出来事でその結果は運命と言うしかない。

 瑞鳳沈没後、海上に分隊員と共に浮び浮遊物に縋り駆逐艦の救助を待ったが、敵の攻撃は戦艦伊勢、日向に向けられ戦闘は続いた。約2時間を過ぎて夕方になり敵機が減ったので、駆逐艦桑が近寄って救助を始めた。停止した桑の舷側に垂れている救助用のロープに泳ぎ着いた。この時、また敵機が来襲したので桑は再び動き出した。ロープに縋る私は、力の負担が増して手を離しそうになった。ここが生死の分れ目だと思った。必死にしがみ付いたが、それで精一杯であった。幸いに先に助けられた分隊員が甲板上からロープを引き上げてくれたので、甲板に上がる事が出来た。手の握力が強かったのが良かったのである。私は体操が少々得意で自信があったのが良い結果を生んだと思う。 然し、この時冷静に考えてロープを身体に巻き付けたなら、そんなに苦労せずに引き揚げて貰えたとは後になっての感想である。

2 瑞鳳を退艦した後、昭和1911月末、駆逐艦桜の航海長を拝命したが、戦局は急速に悪化していった。20年7月11日、遂に桜も最後の日を迎えた。7月になって大阪湾の掃海水道の重要地点B点(神戸港と大阪港から共に約10キロの地点)に停泊して、船舶の保護、警戒に当っていた。

前日に敵機動部隊の本土接近の報があり、早朝の艦上機の空襲を避ける為11日0500出港したが、直後に夜間敵が投下していた磁気機雷に触れて艦尾で爆発が起こり、艦体は大きく振動して損害を蒙り左に約11度傾いた。

 私は艦橋の真後ろにある海図机に首を突っ込んで艦位を確認していたが、ショックで右脇腹を机の角で強く打って失神した。暫くして遠くの方で航海長、航海長と呼んでいるのを感じて正気に戻った。呼吸するのが苦しく、打った箇所が痛かった。信号員の武井上曹等の部下が背中を懸命に叩いて蘇生させてくれたのだ。

 然し、その武井上曹外数人の部下が直後に起きた搭載魚雷の誘爆で、艦の後ろ半分がばらばらに飛散して、露天の旗甲板に落ちてきた鉄片に当り戦死したのである、痛恨の極みであった。私は天井のある艦橋のジヤイロコンパスの前にいて、コンパスに掴まって無事であった。

 付け加えると、一緒に艦橋にいた豊島司令と卜部艦長はこの振動で身体を吹き飛ばされて周囲の壁に衝突して人事不省になられた。幸い正気の私が直ぐに気付いて手当てを指図して大事に至らなかった。忘れられない思い出である。

さて、敗戦となってから、今年は61年が経過している。私も年齢が80歳の坂を3歳越えている。今や残り少ない余命だが、如何に有終の美をもって完結するかを考える時期と思うので、ここに「傘寿の人生観」と題して一言所信を述べたいと思う。

尊敬する海軍の先輩である佐伯 洋氏(61期、最近まで関西ネイビイ・クラブ会長)が、平成6年2月大阪水交会の総会で話された講話を感銘深く聞いたのを良く覚えている。氏は当時81歳で現在の私とほぼ同じの年配であった。話の一部を引用させて頂く。

「青春」という意味をアメリカの心理学者で詩人のサムエル・ウルマン(1840〜1924)の詩によって思い起こして、これから老域に入りつつある諸君と共に改めて熟読玩味したいと思うと前置きして始まった。

青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方を言う。薔薇の面差し、紅い唇、しなやかな肢体ではなく、逞しい意思、豊かな想像力、燃える情熱を指す。また、青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

怯懦(きょうだ)を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。時には20歳の青年よりも80歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時初めて老いる。

 歳月は皮膚に皺を増すが、情熱を失えば心は(しぼ)む。苦悩、恐怖、失望により気力は地を這い、精神は(あくた)になる。

 80歳であろうと20歳であろうと人の胸には驚異に魅せられる心、幼児のような未知への探究心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる青春を伝える気持が心にある。人から神から美、希望、喜悦、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。

 霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ、悲嘆の氷に閉ざされた時、20歳であろうと人は老いる。(こうべ)を高く上げ希望の波を捕らえる限り、80歳であろうと人は青春の状況にある。

 この詩に佐伯さんだけが感動されたのではない。先覚者である松下幸之助さんも宇野 収さんも注目して自分の教訓とし、後輩への垂訓にされている。

 私は心打たれ、この精神を(かて)として実践をしようと決心した。私なりの言葉として次のように表現をして努力している次第である。

 『心に何時も青春がある』

座右の言葉を望まれると、これを贈る事にしている。

 終わりに、KNSとの関連を言うならば、平成6年2月の講演の感激を心に刻んで、当時休眠状態になっていた京都地区の海軍集会の再発足の動きに拍車をかけて同期の山本君や丸山、村山、大島の諸君と語り合って7年12月の設立総会に辿りつく事が出来た。

その後は会員諸君の多大な協力を得て順調に経過して、10年の歳月を重ねた訳で、誠に同慶の至りと思っている。誌上を借りて厚く御礼を申し上げる次第である。

 

 

KNS会の生い立ち

山本 省吾

  

 私の母校である京都一中はもともと海軍には縁の遠い学校だった。70期はゼロ、71期は旧久邇宮徳彦王のみ、72期は「宮様の後輩を送れ」と配属将校の強烈なハッパが掛かり4人に急増したが3人とも戦死し、残ったのは私一人だけだった。

 終戦後、精神的な落ち込みや、高度成長時代の仕事一辺倒の生活中では到底心の余裕もなく、ただ京都在住の桂君と年に数回程度、食事をしながら海軍時代の思い出を語り合うのが唯一の楽しみであった。

 お互いに仕事のほうは定年を迎え、精神的にも時間的にも余裕が出来かかった頃、恒例の二人飲み会の席上で「大阪には旧海軍士官の会合組織があるのに京都に無いのは淋しいことだなぁ! 私等2人で何か出来ることは無いだろうか?」と話し合ったのが平成6年半ばだったと記憶している。

 そこで、お互いに色々と調べた所、当時の情報によると以前に多田篤次先輩を会長とする「京都水交会」があり、一時は活動していたが、その時点では何らかの理由で中断している事が判明した。

私の方で調べた所、多田さんは京都一中の先輩でもあり、たまたま私の親友の医者、天津君が多田さんの主治医を務め、定期的に診察を受けられている事も分ったし、桂君の方では同分隊3号だった74期の島君を通じて、京都に在住する74期生は定期的に会合している事も分かって来た。

 二人は「まず多田先輩にお目にかかって経緯を聞くと共に智慧をお借りしよう。また74期生が会合を持っているなら、幸い3号生徒のことだし手足になって手伝って貰えるだろう。」と勝手に話し合い、KNS会発足構想の第一歩を踏み出した。

 私の方では天津君を通じて多田さんを紹介して頂き、多田さんが来診された時に桂、山本がお会いするアポイントを取ることが出来た。初めてホテルで会食したところ、「自分がやってきた水交会は、残念ながら現在は休眠状態であるが、もし君達が新しく作るなら過去に囚われず、全く新しい会として発足して欲しい。なお、現在私は体調が今ひとつ思わしくないので手伝いは出来ない。全面的に君達に任せるので思うようにやって欲しい」ときっぱり答えられた。

 一方、桂君は74期生の会合に特別出席し、京都で海軍三校出身者の会合を作りたいので協力願いたいとの趣旨を話した処、快く引き受けて頂き、丸山、村山の両君の家がお互いに近く、積極的に手伝って貰うことになり、具体化の手筈も整ってきたのである。 その後、両君の世話で名簿の整備も着々と進み、順調に創立総会を開くことが出来、今日に至っている。

 ただ先駆者である多田さんが阪神大震災の日に急逝され、総会当日に顧問として出席して貰えなかったのは誠に残念である。

 

 

33潜水艦の洋上慰霊祭でのKNS会員の協力に感謝

小西 愛明

 

 

 昭和19年6月13日、瀬戸内海の海上交通の難所である来島海峡西方の伊予灘で急速潜航の訓練中、事故の為に伊33潜は沈没した。私は少尉、砲術長兼通信長として乗艦していた。艦長和田少佐の命令により海中の司令塔から脱出した者は10名位であったが、海上に出て4時間余り漂流した後、漁船に助けられ生存したのは僅かに2名で私はその1人であった。

 遭難場所近くの()()(じま)御手洗(みたらい)海岸に戦後慰霊碑が建ってからは、地元の方々が丁重にお世話して下さり、遺族会が出来てからは毎年6月にその前で慰霊祭をして来たが、平成15年6月は60回忌に当るので海上自衛隊に護衛艦1隻の出動をお願いし、沈没地点付近で洋上慰霊祭を実行する事が出来た。

  遺族の皆様は年齢的に見て、洋上での慰霊祭は今回が最後のチャンスと思われるので、全力を尽くして関係の各位に協力をお願いした結果、盛大に実施する事が出来て皆様の念願が達成されたと思っている。

(23回忌、33回忌、50回忌にも護衛艦で洋上慰霊祭を行った。)

  平成15年6月8日は雲一つない晴天で、参加者は前日昼頃に呉港桟橋で護衛艦まつゆきに乗艦し、松山に着いた。ホテルで前夜祭をし、当日には朝早く再び乗艦して沈没地点と思われる場所に行き洋上慰霊祭を行った。呉から松山に至る片道約3時間の航海を始め、これら一連の行事は昔の海軍時代を思い起こさせてくれた。参加者は乗艦名簿によると私を含めて201名で、護衛艦は参加者で一杯になった。

  参加団体名は次の通り。

1 遺族会員・生存者とその家族、来賓、愛媛県遺族会の有志の方々  145

2 KNS会会員及び兵72期有志 20

3 呉水交会会員有志      18                          

4 呉鎮潜水艦戦没者顕彰会と愛媛水交会の有志      18

(ニュース8925頁の記事と重複するので要旨のみ掲載した。 編集部)

 

 

KNS会に思う

加 藤  種 男

 

 

戦後は既に63年にならんとしていて、毎年忘れ難い敗戦の日が近づいて来る。日本の隆昌を祈りつつそれぞれの道に邁進し、時に同志の集まりとしてKNS会が今日まで続いて来た事は幹事諸君の並々ならぬ努力のお陰であり嬉しい限りである。

 毎回その度に、わが友が新しい顔に見えて仕方が無い。それは我々が「ネイヴィ」と言う特殊部落の出身であり、各人が北は北辺のアリューシャンから、南は南方オーストラリアを共に命を賭けて戦った同志であり、その一人一人が戦後を歩んだ道が千差万別であったからだと言えるのである。

 内地であれ、外地であれ、心は一つの集団「ネイヴィ」であるが、その話題は千差万別なのである。同期生でも『ネイヴィ』の話題の豊富さは特別であり、また新鮮さは格別である。その話題の新鮮さこそが会うたび毎の新しさをお互いに感じるのではなかろうか。

 人それぞれの「経験」「体験」「思い出」は語る事により若さを思い出させ、また、新しい生甲斐にも繋がるものだと私は毎回この会に出席して感じるのである。

 読書も大事、旅行も大切だが、私は「ネイヴィ」の会は「今日は誰の話に感動した」ということが帰宅して何時も思い出されると共に、皆の言葉に深い感銘を受ける事が度々である。

 家族と同伴した時は特にその感銘を二重に感じる楽しみがあることを期待出来るのである。年を経てその心身に一層の深みを感じ、それが次の会合への期待に繋がる様な気がするのは私だけではないと思う。今後も同志の集まりを大切にすると共に世話される諸君に、お礼を申し上げたい。

 私は戦中に受けた傷を克服し、生ある限り自らを戒め、日々の生活に光と輝きを積み上げて行きたい。また、同志諸君の益々のご健勝を祈りたい。

 

33潜水艦の60回忌慰霊祭に参加する機会を得て

加藤 泓子(種男の妻)

 

 

 平成15年6月7・8日京都ネイヴィ会の小西愛明様(72)のご縁のあった潜水艦の慰霊祭に呉水交会を始め主催団体の方々と同行させて頂く機会がありました。

 海上自衛隊呉基地と松山、三津ケ浜の往復に護衛艦「まつゆき」に乗せていただき、片道3時間、計6時間余りの広島湾及び伊予灘の航海を体験出来ました。

 呉港を出港して江田島、宮島、阿多田島、柱島、クダコ水道と瀬戸内海を満喫する事が出来ました。このように長時間、艦に乗せていただいて見る物総てが珍しい事ばかり、あちらこちらと見学致しました。特に階段というのか梯子というのか傾斜がきつく、少々スリルが有りました。隊員の方が事故の無いように気配りをして下さいました。

 私事ですが里の父が大阪商船、関西汽船の船に勤務していた事もあり、瀬戸内海は一入思い入れも深く、艦尾から海面の波を見たり、島影、山並み、行き交う船を眺めたりして少し感傷に浸りました。

6月7日

12:30 呉海上自衛隊基地で護衛艦「まつゆき」に乗艦。

  16:00 松山、三津ケ浜着。

  1820 時 関係の方々と夕食、懇談。

6月8日

   9:40 三津ケ浜埠頭で「まつゆき」に乗艦。

   10:00 出港 興居島御手洗海岸前に向う(遭難記念碑あり)

10:30 洋上慰霊祭を開始。
儀杖隊、ラッパ吹奏、祭文奏上、慰霊の詞、献花。

 11:00 慰霊祭終了、遭難現場へ移動

 11:40 護衛艦現場着、周辺を一周する.儀杖隊、ラッパ吹奏、花束投下、献花。

 11:50 三津ケ浜に向け帰途に就く

 12:45 三津ケ浜着。便乗者退艦。ネイヴィ会員は呉まで乗艦する。

   16:00 呉自衛隊基地到着 退艦 解散。

 

 伊33潜水艦は昭和19年6月13日朝伊予灘で訓練中事故の為機械室に浸水、8時5分頃由利島沖で沈没、和田艦長以下102名の乗員が殉職されました。

 小西愛明様はその時、司令塔におられ艦長が「ハッチを開いて脱出すれば助かるかも知れない。自分は艦に残るが、助かった者は、事故の報告をせよ」といわれたのに従い10名余りが艦外に脱出され、小西様他1名の計2名の方が漁船に救助され今日に至られた由、小西様のご胸中はさぞかし御辛く万感胸に迫る思いでではと、拝察致しました。

 6月8日、慰霊祭の当日は好天に恵まれました。「まつゆき」のヘリポートに参加者が整列しました。今回の60回忌慰霊祭は呉水交会、呉鎮潜水艦戦没者顕彰会の後援及び海上自衛隊呉総監部、第一潜水隊群司令部、潜水艦教育訓練隊のご支援により行われる運びとなったとの事です。その中の一員として、京都、ネイヴィ会の方々とご一緒に参加させて頂きました。

 自衛隊員の方が小銃を空に向って発砲され式典が始まりました。高見俊作様(33潜初代航海長、現在呉鎮潜水艦戦没者顕彰会会長、兵66)の祭文、遺族代表の方の祭文と続き、60年の歳月を経てもその当時の悲しみがしみじみ感じられました。私の後ろで抱っこして貰っておられた幼いお子さんが「ひいお祖父ちゃん何処」と発せられた言葉が参列者の胸に深く響きました。何か胸が一杯になりました。60年経って今幼いお子様の中に受け継がれて居る生命、感慨無量な思いが致しました。

 この後「まつゆき」は伊予灘東部の由利島と青島の中間の遭難地点に行き、艦上から海面に向ってお花、お酒を投げられました。この時海上自衛隊の潜水艦が伴走する姿が今も目に焼き付いております。

 遠くはシンガポール、五島列島、大津島等数々の慰霊の旅に同行させて頂く機会がありましたが、その度に若くしてお国の為に散華された方々のご遺族のお心を思う時とても辛い気持ちになり、現在の平和な暮らしを有り難く感じるばかりでした。

 この旅でとても救われた事があります。それは、次の時代を背負って下さる若人たちが厳しい訓練を経て立派に頼もしく育っておられる姿を長時間ご一緒して、目の当たりに拝見出来たことです。

 今回参加した京都からの19名の中で私一人が女性なので行くまでは多少の懸念がありましたが、緊張と感激を肌で味わい、残された人生を夫と共に生きていく新たな決意と勇気を頂きました。一緒に過ごして来たからこそ、味わう事が出来たと有り難く思っております。

 歳はいささか重ねられましたが、護衛艦上での元海軍の方々は颯爽と格好よく水を得た魚のように、溌剌と往年の若き日を思い出しておられるようでした。

 皆様 とても素敵でした。現在の平和な日本が永遠に続くのを、祈っております。