TOPへ     物故目次

平成22年5月2日 校正すみ

秋山昇三郎君を偲んで

片山 勇

昭和54年以来、治療法の判らないアルッファイム病(脳細胞が萎縮する病気)に悩まされ続けてきた秋山昇三郎君が昭和60年12月22日心不全のため急逝された。

同君は生徒時代にも病を得て長期間入院生活を送ったことがあった。そのため、51期から53期に編入替えとなったので、私の記憶には、同君の顔を初めて見たのは昭和17年のなかばを過ぎてからであったのではなかったか。二号の時である。

大病のあとの肉体的ハンディを乗り越えて、はげしい訓練によく耐え、ひと言の弱音もはくことなしに頑張っていた姿が目に浮んでくる。元来が大騒ぎをするようなタイプでなく、どちらかと云えばおとなしい真面目な秀才であった。今にして思えば、内に秘めた強さこそ彼の真骨頂であったのではないかという気がする。


 昭和20年の4月、私が南方から台湾の新竹に移って間もなくのこと、秋山君がフィリッピンから内地に転出の途次、新竹に立ち寄ったことがある。この頃は、米軍の攻撃はげしく、すでに沖縄もその蹂躙(じゅうりん)するところとなり、台湾は置いてきぼりを食った形になっていた。

僅かながら残存していた戦闘機や攻撃機を修理しつつ、新竹から沖縄周辺の米艦船攻撃を繰り返へし行っていた。当然、米軍機による空襲もはげしさを増していた。

某日、同じ宿舎を出て飛行場への一本道を二人で歩いていた時、突如米軍機の襲撃を受けた。夢中で道端のドブ川に飛び込んだ。この時米軍が使った親子爆弾は地上に落ちると瞬時にして、無数の破片となり、周囲のものすべて蜂の巣にしてしまうものであった。こんな所でやられてたまるかと思うが、泥の中に身を沈めて、はいつくばっているより他に策がない。やがて爆音も遠のいて、やれやれと起き上がったが、二人の顔は泥だらけ、おまけに草の根がこびりついている。思わずどちらともなくふき出してしまったが、今では遠い思い出になってしまった。

 

戦後、私は東京で会社員になったが、終戦間もない頃の安月給では食ってゆけないので、短期間ではあったが、内職に毛皮用の小動物ヌートリアを飼育していたことがある。その時の一つがいのヌートリアは秋山に世話して貰ったものであった。当時彼は結婚して(さぎ)の宮に居を構えたばかりの時であったと記憶している。だが、何故彼とヌートリアが結びついたのかは覚えていない。

 

私はクラスの中では、生徒時代、学生時代、戦場で、そして戦後と細々とではあるが付き合いのあった一人であるが、その後は彼・我ともに仕事に追われてすっかり疎遠になっていた。数年前に電話をかけたことがあるが、その時、電話口に出てはいるが、何か話の伝わらないもどかしさを感じて電話を置いたことがある。今考えるとその頃にはすでに病を得ていたと思い当る節もあるが、それなりについ家に伺うことも遠慮してしまった。彼もクラス会等の会合にも出てこなくなっていたが、こうして訃報に接してみると、誠に申し訳ないことをしたと悔まれる次第である。

今はただ、心からご冥福を祈るのみである。

 

《お礼の言葉》  

秋山 欣子 (1/18)

このたび夫昇三郎死去に際しましては、「なにわ会」より御鄭重なるご香料を賜りまして誠に有難く厚く御礼申しあげます。

常日頃、何かとお世話になりながら何のお役にも立たず逝ってしまいまして、その上またご面倒おかけし恐縮しつつ有り難く感謝申しあげます。

TOPへ     物故目次