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平成22年5月13日 校正すみ

伴 正一兄を偲ぶ

槙原 秀夫

 平成12年5月26日、次の日の津屋崎の東郷神社の例大祭、日本海海戦記念式典に参列すべく、福岡県津屋崎の地にいた私に、図らざりき、伴兄の訃報が届こうとは。病状が相当悪化していたことは承知していたか、執念とも称すべき、狼の勉強会に対する愛着は、仮すに時日を以てすと思っていたのに。
  呆然自失、執るべき道を失う程であった。28日は、原宿の東郷神社の例祭があり、また、彼の遺言により葬儀は家族のみで行えということでもあったし(実際は違うことになることは分かっていたが)、さらに、クラスの北川君、コレスの樋口君か参列して呉れると知らされたので、葬儀には欠席することとした。平素、もし伴兄が先立つことがあれば、お別れには何をおいてもはせ参ずると心に決めていたのに。これ、憾みとする第一である。

 伴兄は、高知の名門、土佐中学の俊秀であったと聞かされたことがある。果たせるかな、わが33期生徒の首席で合格、1、2、3学年とも、級長としてクラスの中心的存在、リーダーであった。しかも、卒業に際しては、御下賜品拝受者として、いわゆる「恩賜の短剣」を拝受されたのである。

 伴兄は、仁土佐の風土を受け、国士の気概を持つ性重厚であるが、かたくなでなく、野人の風貌に隠された堅固な志を持つ、いわゆる大人の風格の人であった。生徒の期間を通じ、吉田松陰先生の講孟余話を愛し、平泉澄光生の万物流転を好んだ兄に、人生いかに生くべきかを教えられること、しばしばであった。大東亜戦争の勃発という有史以来の大事件の最中の生徒生活であったが、海軍、学校当局の配慮により、私共は、人格の形成に、学業の研鑚に、戦局の推移に一喜一憂することなく専念出来る雰囲気に恵まれ、切磋琢磨することが出来たことは、私共の一生の幸せというべきであろう。

 卒業後は、練習艦隊の一時期を除いて、会う機会はほとんどなかったが、会えば、戦勢非なる日本の将来を憂い、悲憤慷慨したことが眼に浮ぶ。やがて、将兵懸命の奮戦力闘にもかかわらず、遂に20年8月の敗戦を迎えるに至った。国家の将来、荒廃した国上に再建がなるものか、青春を捧げた人生、気持の転換は可能なのか、適帰するところを知らざる状況となった。

 伴兄は、逸早く自らの進路に見定めをつけたのであろうか、東京大学法学部に入学した。戦後の混乱のなかで、よく勉強に励み、卒業の頃に、司法試験にパスし、外交官試験に合格した。彼の行くべき道について議論したこともあったか、当面日本にとって、最も重要なのは外交と見極めたのであろうか、外務省に入省、外交官の道を進むことになった。 外務省における彼の業績はつまびやかではないが、昭和29年掃海艇「やしま」の受取要員として渡米した私は、サンフランシスコの領事館に勤務していた彼と、その第一夜、ウイスキーを飲みながら、彼は海を離れて外交官、我は海上自衛官と職は変わっていたが、お互いに日本国家に尽くさんとの青年の志を語り合ったことであった。外務省における業績は、私の云々しうる立場にはないか、海軍の経歴が外務省においてプラスに評価されたか、マィナスであったかもわからない。たた、後年の彼の勉強会である「魁け討論、春夏秋冬」により推察するのみである。外交官としての卓見流石と思うところがある。しかし、私としては∵彼らしい外務省時代の勤務として、五年間の青年海外協力隊の事務局長に如くはないと考える。青年隊員のことを語る伴兄の眼は活き活きとしていたし、隊員の諸君はその熱意を感じてくれているものと思う。

 伴兄は、北京公使を最後に、外務省を去り、政治家の道に進むことになる。外交官として一生を過こすより、政治家として、直接国家の将来に関与すべきだとする彼の信念には、友人として、全面的な同意と理解を示したい。彼が今の日本の政界に適当かどうか、彼の政治家としての資質を疑うものではないが、適応出来るかどうか、彼を知る者に相半ばするものがあった。

 選挙にも彼なりの努力は払ったようであるが、結果的には政界入りは断念せざるを得なかった。私は、あえて伴兄のためにこれを喜ぶ。日本の現在の政昇の汚濁に呑み込まれることは彼にとって適当でないと信ずるからである。青年海外協力隊に対する伴兄の愛情、「アイハウス・グループ」(伴正勉強会)における執念に示されるごとく、彼の真骨頂は、次代に彼の志を述べる教育者にあるからである。

 伴兄の没後、クラスの一人から、彼が槙原とは、国について語ることがなかったという述懐があったと聞いた。頭から冷水を浴びせかられた気特である。勉強会の作品である「魁け討論春夏秋冬」の恵贈を受け、時に意見を求められたことがある。思い出してくれた厚意と配慮には感謝を惜しまなかったが、結局彼の折角の申し出に、答えることをしなかった。天下国家に対する伴兄の切実な思いに応ずべく、私の志は至らなかったこともあろう。何より彼に応えるには、私白身相当の努力が必要であったのに、ひたすら怠惰であったからである。今日に至り悔やんでも仕方がないが、憾みに思う第二である。

 告別式に欠席する失礼を謝するため、久子夫人にお電話した際、伴兄のご臨終は何の苦しみもなく、死に顔も穏やかであったと聞いた。彼自身、高齢で大病に冒され、また何よりも御次男の海外における交通事故死は、心痛おく能わざるものがあったと思う。しかし、この不幸を克服しょうとした伴兄の精神力に敬意を表すると共に、久子夫人の愛情につつまれ、長男を始め御家族の立派な御成長は、伴兄にとっても満足であったに違いないと信ずる。伴兄は私にとって友人というよりは、人生の先覚者であり、学問の師父ともいうべき存在であった。今や亡し。悲しみに絶えない。伴兄の素志を後代に伝えんとする音は、青年海外協力隊、勉強会のメンバーの以外にも、多くおられると思う。私もその驥尾(きび)につき、一臂(ぴ)の力をかしたい。

 伴兄はこの世から去った。寂寥(せきりょう)に耐えない。哀悼の意を表するとともにご冥福を祈る。

(なにわ会ニュース8515頁 平成13年9月掲載)

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