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平成22年5月8日 校正すみ

大楽峻君の死を悼む

 正一

弔  

 大楽君、君とは昭和15年12月1日からの付き合い、後少しで50年になるところだったなあ。互いに紅顔の美少年、一高か海経か、といわれた天下の難関、海軍経理学校に合格し、君は鹿児島から私は高知から上京して憧れの短剣姿に着替えた。一緒に殴られ、一緒に励み、一緒に威張っているうちに、卒業となった。そして戦雲急なる南太平洋に向かう。それは海軍主計少尉候補生の晴れ姿だった。

  国、危急の中にものどかなひとときがあり、大楽のことを一番良く覚えているのがそういうのどかな一時のこと、ときは昭和19年の1,2,3月、ところは懐かしのパラオである。

 こちらは第2艦隊旗艦「愛宕」、君は聯合艦隊旗艦「武蔵」、大楽の艦へ遊びに行って、時の聯合艦隊司令長官古賀大将の姿を見受けたこともあった。日曜日に一緒に島へ上り、パラオの子供達に慕われ、一緒に山登りをして、おにぎりを頬ばったこともあった。

少尉に任官して、生まれて初めて乗る飛行機でパラオを飛び立つ時も、大楽と一緒ではなかったかなあ。そして、まだ平和だったサイパンで一夜を過したのも。

激烈な戦いの中で、同期の半数近くが死んで行った。戦い済んで生き残って最初に相見えたのは逗子の日渡家だったと思う。その時は、海軍ひいきだったそこの二人娘と生まれて初めてダンスなるものをしたのも、ついこの間のことのようだ。海上自衛隊に行った大楽と、外務省入りをした私とは、高杉を入れてよく飲んだものだ。北京赴任の時にプレゼントしてくれたカフス・ボタンは、私が最も長い間、なくさずに愛用したカフス・ボタンだった。

 大楽の仕事振りは遂に一度も見ることがなく、49年の付き合いに幕がおりた。近くにいながら、「会計士、松山の大楽」に会わずじまいになったことが悔まれる。一生竹馬の友であり続け、それ以外でなかった大楽だった。大楽の病状が怪しくなったのと、私が大好きな酒をやめたのとが、偶然にも同じ頃だった。あの世で貴様と飲むまでは、私は酒を口にしないで居続けるつもりだ。陽気な大楽、待っていてくれ。そう長いことではないだろう。

  勝手な思い出ばかり述べて33期を代表することにはならなかったが許してくれ。

昭和63年11月5日

(なにわ会ニュース6013頁 平成元年3月掲載) 

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