TOPへ     物故目次

平成22年5月8日 校正すみ

大楽 峻君のこと

山之内素明

 昭和63年11月3日午後2時15分死亡との電話連絡を受けたのは、翌日からの東京出張のため、外出から帰宅して玄関に立ったときであった。電話の主は、彼の従兄弟からである。

11月3日は、「カイケイゴウカクイインチョウ」の電報を受け取った思い出の日でもある。

「やっぱり駄目だったのか、小さい子供を残して、心残りであっただろう」と、彼の一生を思い見ることだった。しかし、彼ぐらい「自分に正直に生きてきた」奴もいないではないかとの思いもある。

 幽明境を異にした今となっては、話しができるうちにもう一度会っておけば良かったとしみじみ思う。彼が入院したと聞いたとき、是非会っておこうと松山行きの航空券を準備したが、「今は来るな、絶対来るな。元気で退院してからこい」という拒絶にあった。8月のことである。

 9月も同様であった。9月のときは、もう手術して点滴中で、お話ができないからという理由で、ミセスの母上からのお断りであった。

 10月中に飛ぼうと手配したが、今度はこちらの都合がつかなくなって、10月には断られても行くつもりがついに果せなかった。

 「来るな」と言いながら、知り合いの消息を知りたがっていたそうであるから、内心は寂しかったのであろう。治療薬の副作用のため、頭髪が薄くなり、痩せて醜くなった顔を見せたくないとの思いが、彼と彼の家族にあったのかもしれないと思うと、「会いたくない」、「会わせたくない」 の気持ちも分からないではない。

 彼とは、鹿児島一中の3年の時、同クラスとなって以来の付き合いである。彼はそのとき、私たちのクラスの級長であった。副級長は、後に71期となって、台湾沖航空戦で戦死した永田慶十三であった。一クラス3人海軍に入ったうち、2人もいなくなったわけである。「自分に正直に」と言えば、中学3年の学年試験の時、当時「修身』の試験があった。今の道徳に類するものか?

 彼曰く「修身のような試験科目があることが不可解である。人格養成論を文字に書くことによって、点数格差をつけるのは不合理である。したがって我輩は、『修身』の答案用紙は白紙で出す」と言う持論を実行したのである。

 「級長たる者が何たる事を」とか、「修身担当の校長を侮辱するのも程々にせよ」とか、喚めく職員室と校長室に出入りして頭を下げるのは、白髪の彼の親父さんであったが、彼はなかなか謝らなかった。彼の論にも一部の理がある。が、でも所詮「少年客気(かっき)」の感と言えないこともない。その当時、彼の行為に声援を送った仲間の一人として、共鳴するところがあったのを思うと、あながち彼を笑うわけにはいかないわけである。

 中身は、同じ穴のむじなだったと言うことか。勇気があったかどうかと言うことであろう。

 アメーバ赤痢で痩せて上海より帰国した彼を、小池兼五郎さんに頼んで、佐世保の経理部に来てもらったのが、戦後の初対面であった。トラック島の武蔵以来の再会であった。

 爾来、佐世保の福田町、宮田町と一緒に下宿を移り代って、若い椅麗な? 理事生たちと、佐世保の烏帽子岳や将冠岳へのハイキングと洒落込んだのである。その頃、なぜか女性は丸々と太っていて、我々男性は、見るも無残に痩せさらばえていたことを思い出す。下宿住いの我々にとって、地元の理事生らが自宅の畑からさつま芋とか粟(あわ)飯などを差し入れて子に優しくしてやったのも、見え見えの助べ根性であったかもしれない。佐世保でロマンスの花を咲かせ、青春を謳歌している彼を横目に見ながら、病床に伏すことになった小生にとっては、濡れ犬、捨て猫同然の思いをしていたのも、今となれば、40年の昔の話になってしまった。

 今は、そのときの愚痴を笑い話として言う相手もいないことになってみると、感無量と言ったところである。彼の発展振りに、小池さんから、「クラスだから一寸何とかしろ」と言われたこともあったが、going my wayだったのも彼らしい一面である。小池さん達にとっては気に触っても、当時の若者にとっては、ごく当たり前だった感覚であったのであろうか。

 「大きいことはいいことだ」とは、戦後なにかのコマーシャルの文句であるが、彼と旅行してはいいことはまったく無い目に合わされていた。旅行といっても、休暇の行き帰りか、戦後佐世保での買い出し旅行ぐらいのものだが、荷物を網棚に上げる役はいつも俺、人の間を潜り込んで素早く座席に座るのが彼。汽車のデッキで寒風に晒されるのが俺で、客席に手早く入り込んで、ぬくぬくとしているのが彼。荷物の番をしながら立たされているのが俺。そんな弥次喜多道中である。いつも損な役が俺である。童顔で話の旨い彼は、直ぐ人に好感を持たれるが、不細工、不景気な顔付きの俺は、何時も彼のボケ役である。

 生徒の頃は、あまり彼のことを良く知らない。一番距離が離れて行動していたから、教室の居眠り具合もしかと見えないのである。

 俺は何時も先頭グループで、彼は何時も後尾であったからである。

 某日、短艇係の大楽生徒、芦田教官に対し、「宜しい」と整備報告。教官曰く「宜しくない。一人走ってくる」。大楽、「あれは偶数分隊であります。本日は、奇数分隊(の訓練日)であります」。メガホンと手旗信号を持って走ってきたのが、わが六分隊の吉田博である。

 当の六分隊では、吉田が来ないがどうしたのであろうかと心配していると、汗を拭き拭き吉田が温習室に駆け込んできた。プンプンである。山本に向ってである。「訓練は何かと聞いたら、山本が短艇だと言ったから、事業服に着替えて走って行ったら、今日は奇数分隊ではないか。何故騙(だま)したか」と、大変な剣幕である。山本曰く、「訓練は何かと聞くから、短艇と言っただけだ。早合点するのが悪い」と。

 一号になって、初めて艇長としての短艇訓練に張り切っていた吉田としては、奇数も偶数も頭になかったのだろう。「今日は艇長が・・・・ 短艇訓練終了後がまた面白い。大楽が吉田を掴まえて、「貴様のお陰で教官に叱られた」と文句を言っている。吉田汗を拭き拭き言訳にしどろもどろ。・・・今頃3人で思い出話をしているだろうか。笑いながら。

 いや吉田は、やっぱり汗を拭き拭き喋っているのかもしれない。彼大楽は、自衛隊に入る前に、暫く鹿児島の「出光」にいたが、入隊後は、殆ど鹿児島に帰っていないのではないかと思う。自衛隊以後の彼の消息は、私は殆ど知らないと言ったほうがよいくらい疎い。

 ただ彼の弟が郷里の日吉町で町議会議員をしていて、時折顔を合わせた際、消息を聞く程度だったからだ。

 「頑固な一生」だったのかなあと、己の生き方と比べて羨ましくさえ思うことがある。

大楽よ、悪口も言ったけど、悪く思うなよ。

残した小さい子供が気掛かりだろうと思うとたまらない気がする。我々はどうすればいいんだろうか。

(なにわ会ニュース6012頁 平成元年3月掲載)

TOPへ     物故目次