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平成22年5月10日 校正すみ

伊達 利夫について

横山 逸二(義兄)

永い間利夫のことで尋ねてくれる人とてなく、既に遠く忘れられたものとなっていた折「海軍兵学校 72期生」この文字を読んだだけで昔の利夫の面影が瞼(まぶた)に浮んで来ます。こう申します私は利夫の姉量子(48才)の夫であり、只今代筆しております。<BR>

 ご書面による推察とおり、伊達利夫は、昭和24四年1129日、国立病院福山療養所内で死亡したのであります。

その後父母も次々に亡くなり、現在利夫の実弟伊達 浩(31才)が広島県府中市中須町に、その他姉豊子(私の妻)等が表記のところ(記載略)に住んでおります。

 利夫が亡くなって既に20年、当時弟浩はまだ小学生であり、死亡当時の状況は判らず、私が知っておりますので申し上げます。

 昭和22年頃であったと思います。利夫はその頃、私共夫婦が住んでおりました広島県芦品郡新市町戸手に立寄り、第二の人生にと希望に燃えて大いに飲み、また語り、そして京都に出発しました。そして昭和24年の5月頃であったと思います。突然私の家へ戻って来たのであります。その利夫の姿は出発当時とは全くことなり、痩せ細った病人で歩行すらできないものであったのです。早速近くの結核病院へ入院させたのであります。病名はやはり肺結核3期で手おくれであったのです。そして病棟3カ所も変り、淋しい病院生活を約半年位で薬石の効もなく、福山療養所で死亡したのであります。 

 病気が肺結核であり、見舞う者とて余りなく、死亡の時は母だけがおりました。午前10時頃であったということですが、いよいよ死期が迫ったと思う時でしょう、利夫は軍隊にいると思っているのか、また兵学校にいると思っていたのか、大きな声で最後の声をふりしぼり、海軍兵学校の歌を唄い終ると同時に息をひきとったということであります。痩せるだけやせ細り、精神の続く限り軍人として生きていたような感じがいたします。若くして亡くなった利夫の最後は淋しい不幸なものであったと思います。終戦直後、復員のときは、気を落して無一物で帰り、戦時においては負傷しながらも国家の補償何等受けず、また受ける親も亡くなり、ほんとうに昔話となってしまったのであります。

 この度はほんとうによく尋ねていただきまして、私達身寄りの者として只利夫の名を伺って貰っただけでもありがたく感謝しております。以上が利夫の長崎屋退職後の状況であり、お知らせいたします。

編集部注、 故伊達利夫君は横須賀突撃隊(海竜搭乗員)で終戦を迎え、復員後、京都市の「長崎星」に勤務していた。当時は数名の同期生が京大に学生とし在学しておったため、時には「長崎星」で彼と会い互に励ましあっていた。しかし、昭和24年春には、これらの者は京大を卒業して京都を離れ、彼との交友はなくなり、伊達君の消息はプッツリと切れた。風の便りに帰郷死亡したという噂があったがよく判らぬままであった。今般厚生省の資料によって海軍兵学校時代の本籍地が判明したので、これをたよりに調査した結果、前掲の事情が判明した次第である。

 故郷で一人淋しく、最期まで海軍を愛し、清く散って行った伊達君を偲びたく私宛の私信であるが、義兄横山逸二氏の手紙の一部を発表した次第である。

 なお、故伊達君の遺族が判明したので、物故者遺族で不明者は、故三谷吉甫君の遺族のみとなった。
(故伊達君と同様、兵学校時代の本籍地から追跡調査しようとしたが、戸籍台帳が戦災で消失のためただいまのところ手がかりが無い。
                        (大谷
 友之)

(なにわ会ニュース17号27頁 平成44年5月掲載)

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