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平成22年5月13日 校正すみ

冨士栄一君の逝去

相澤善三郎

60・7・20冨士栄一君逝去 謹んで冥福を祈る

冨士 栄一氏(前宮地鉄工所副社長)20日午前10時10分、急性腎不全のため神奈川県鎌倉市の佐藤病院で死去、61歳。自宅は(略)。

告別式は22日正午から台東区浅草1−3−6−3の仲兄世会館で。喪主は妻 英子さん。

第2次世界大戦末期にわが国最後の艦上攻撃機「流星」のパイロットを務めた。
(日本経済新聞の記事)

弔  辞

相澤善三郎

わが敬愛するクラスメイト冨士栄一君、図らざりき ここに今 君に捧ぐる弔いの辞を草せんとは。

始めて君に目見えしは、昭和1512月1日なりき。時に君は東京府立第3中学校より選ばれて海軍兵学校に入学、72期クラス会員として以後、刎頚(ふんけい)の交りを結ぶ。君は生来身体強健にして運動神経衆に勝れ、とくに水泳、角力においてはクラス中に抜群の力量を保持したり。

昭和18年9月、戦雲ただならぬ中に海軍兵学校卒業。自ら志して航空の道に進み、霞浦、百里が原海軍航空隊において、艦上爆撃機操縦員、空中指揮官としての修業を積めり。

昭和19年7月、台南航空隊教官として後進の指導に当る。同年11月特に選ばれて最新鋭雷撃兼爆撃機流星のテストパイロットとなり、横須賀海軍航空隊大分分遣隊において試験飛行と訓練を行う。流星生産111機のうち、過半数の64機の試験飛行を重ねたるとは、君が生前誇らしげに余輩に語りしことなり。

昭和20年4月、流星をもってする実戦部隊攻撃第5飛行隊が編成さるるや、君はその飛行隊士に任ぜらる。とくに同年7月25日、敵機動部隊に対する夜間攻撃に際しては、列機を率いて午後5時木更津基地を発進、午後8時敵航空母艦に対し必中の急降下爆撃を敢行、350メ−トルの低高度より君が放ちしたる500キロ爆弾は見事命中、驕(きょう)(てき)の心胆を寒からしめたり。

「俺がダイブに入ると、射ってくるわ、くるわ、そのすざましいことといったらなかった。俺はふと子供の頃、両国の国技館の豆電球が一斉にともった瞬間を思い出した」と、これもまた誇らしげに余輩に語りしことなり。

昭和20年8月、戦い我に利あらず。復員せる君は戦争中企業整備のため休業中の浅草仲兄世評判堂の復興に令夫人と共に全力を傾注、さらに株式会社宮地鉄工所の経営に参画、副社長としてよくその重責を果したり。

冨士栄一君、君はわが72期クラス会の中心人物たりき。

「冨士の参加せざるクラス会は、気の抜けたるビールの如し」とあるクラスメイトの述懐せるはその間の事情を云い得て妙なり。とくに昭和5211月の江田島クラス会、さらに58年9月の還暦クラス会において、君は幹事としてその卓越せる企画力と実行力を遺憾なく発揮し、大成功裡に終始せるは昨日のことの如し。

而して8年後の古稀クラス会の幹事を約せしも、その責を果すことなく昇天し給えり。

君亡き後のクラス会の淋しさは言うに術なし。「俺はこの世でしたいことをした」とは、常々の君の口癖の如き言葉なりLも、昨年10月の大手術のあと病躯をおして、本年4月にはニューヨークにご令息を、ロンドンにご令嬢を訪問する大旅行を敢行せり。その最後になしたることは、この大旅行に象徴さるる如き感あり。

冨士栄一君よ、ああ、君は61歳を以て此の世を去れり。

 而してその最期は、最愛の令夫人、御令息、御令嬢にみとられつつ、さらにまた主治医として最善の努力を尽したる高橋猛典君を頂点とするすべてのクラスメイトに惜まれつつ、この世を去れり。以て瞑すべしと言わざるべからず。

顧みれば君との交友は既に45年になんなんとす。今君の霊前に捧げんとして筆を執りたるもその間のこと、走馬燈の如く余の眼前に彷彿(ほうふつ)として浮び消え、筆進ます、意を尽くすを得ず。唯々、君の冥福を祈るのみ。

昭和60年7月22日

海軍兵学校第72期クラス会

代 表 相澤善三郎

冨士榮一君の葬儀

 富士栄一君 同期諸兄との交友と、名機流星の追想を無上の生甲斐とした名物男が亡くなった。彼の葬送は生前の彼にふさわしい、盛んなものであった。

 通夜は7月21日午後7時から9時まで浅草仲見世会館に祭壇が設けられて、しめやかな中に盛大に行われた。先輩ならびに同期諸兄85名は焼香の後、富士宅2階に集り、生前の彼の思い出話に予定時刻を過ぎても尽きることを知らなかった。淋しがりやで賑か好きの彼はさぞかし喜んでくれたであろう。

 告別式は7月22日正午より1時迄同じく仲見世会館で行われた。

 白い積雲の浮ぶ青空に真夏の太陽が輝いて居た。予め仲見世会長との打合せにより葬儀は同期田中春雄の司会により進行した。僧侶読経の後、同期相澤善三郎と石隈辰彦教官の弔辞奉読があり、続いて弔電が披露された。彼の生前の活躍と交友の広さを物語る様に、読経と同時に始まった焼香の列は定刻を過ぎても延延と続き参会した同期生も70余名に達した。弔電も150通を超え、内同期からの分も25通に及んだがその一部が披露された。最後に喪主に代り森田仲見世商店会長の会葬者への御礼と富士家長男彰夫さんの御挨拶があった。

 火葬場への見送りは御親族、商店会等関係者100余名の中に同期生22名が同行した。

 令夫人、御令息、御令嬢にそれぞれ遺骨、遺影、遺牌を抱かれて悲しい帰還の途次、浅草草津亭にて改めて焼香し精進落しの行事があった。

 席上、長年主治医を務めた高橋の冨士を惜しむ言葉に遺族を始め一同涙した。次いで三中同窓生、宮地鉄工所、商店会の方々と、同期加藤孝二の追悼の思い出が語られた。午後6時頃、総てが終了した。

小生も帰りの道すがら、彼との45年の交友の数々が脳裡に浮び悲しく、只々冥福を祈って止まなかった。

(なにわ会ニュース5333頁 平成2年3月掲載)

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