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平成22年5月13日 校正すみ

冨士 栄一君追悼・流星のごとく

山田  穣

猛烈な弾幕をくぐって、一機の艦爆が突っ込んでくる。ヨークタウンの艦上では、ハルゼーが、胸の双眼鏡をとりあげた。

「あっ、あれは何だ!」つばさの折れ曲がった、始めて見る雷兼爆に、歴戦の米兵も、目を見張った。

と、一瞬の間もなく、日の丸をつけた艦爆は、何の遠慮会釈もなく、見事なヘルダイブで、500キロを落下し、米軍の必死の防空弾幕をくぐり抜け、見事に機首を引き起して避退してゆく。

ダダダン ドオン

ヨークタウンは、飛行甲板に大穴を明けられ、頻死の重傷でのたうち廻っている。

ミッドウエー沖で、ハルゼーが始めて見たこの日の丸の艦爆こそ、帝国海軍の新鋭機、「流星」であり、この一番機のパイロットこそ、帝国海軍にこの人あり、と言われた、兵学校72期の「冨士栄一海軍大尉」である。

残念ながら、冨士の流星は、ヨークタウンに、頻死の重傷をおわせはしたが、さすがに米国海軍の至宝ヨークタウンは、まだ浮いている。しかし、殆ど動かない。

近くには、数隻の駆遂艦が、沈没寸前のヨークタウンに、あたかも、子が親の危篤の枕頭によりそうよう、その護衛に忙しい。

大本営軍令部の命をうけたイ53潜は、浮上航海で、冨士のやったヨークタウンの処分に急行する。

「敵空母発見。燃えています。」

艦橋の一番見張りが叫ぶ。

潜航いそげ。

六本の九五式魚雷が走る。見事に、ヨークタウンは撃沈された。おまけに、駆遂艦二隻も、この一斉射の餌食となった。

イ53潜の艦長は、誰あろう、冨士と同期の山田 穣大尉である。

冨士と山田は、飛行機と潜水艦の違いはあったが、二人そろって、陛下に単独拝謁を拝し、殊勲甲、功四級を賜わった。

×    ×    ×    ×

戦後40年、今でこそ、この馬鹿ばなし、嘘話は誰も本当にしない。

しかし、冨士は良く俺に言っていた。もちろん、酒席でのうかれ話ではあったが。「こんな話も、あと20年、30年すれば、俺達の孫か曽孫の代には、『ぼくのじいさんは、アメリカの一番でかい空母を沈めたんだって』ということになるぜ。」

彼は、飛行機のことは判らない俺に、「艦爆の学生時代、実技面での恩賜卒業は俺だ。俺の右に出る学生は、一人もいなかったな。」

つくり話、酒席のヨタ話ではない、本当の実話として、彼の戦功は、素人門外漢の言うところではないが、相澤の弔文に詳しい。

自称「恩賜」で卒業した彼は、愛機をかつて、昭和20年7月25日、沿岸を遊弋する敵機動部隊に、木更津から夜間攻撃をかけ空母1隻に50番を命中、損傷を与えた、と。

これは、前段の酒席のヨタ話とちがう。本当の実話である、と、中川も、加藤も証言している。

冨士は、自分の実話の手柄話は、俺に一言もいわなかった。その代わり、いかにもヨタ話風に、ヨークタウンや、レキシントンの撃沈をした話をしてくれた。この辺に、冨士の人柄の一面が偲ばれる。

×  ×  ×  ×

彼の骨を拾った。東京町屋の火葬場である

それは、7月22日の、午後3時半ころであった。

あの豪傑の冨士が、とうとう、お骨になってしまった。

想えば、昭和15年12月1日。江田島で会して以来、分隊こそちがえ、2年間、同じ部に属し、飛行機と潜水艦のちがいこそあれ共に海軍を愛し、海軍を語った友は、もういない。昔の軍歌、

「死んだら骨を頼むぞと………」

そんな歌を想い出しながら、いまや、骨となった冨士のお骨を箸づかんだ。相手は、国生だったか…………。

そのあと、浅草の草津亨で、百人を越す、精進落しのおもてなしがあった。クラスの出席者も約三十人。

席上、高橋猛典が、医者として、主治医として、冨士の後半世を語った。まさに、声涙共に下る名演説であった。高橋にしても、鶴友会事務局長冨士栄一の死であっただけに、

そして、最も長い彼の患者であった冨士だけに、自分の医者としての力及ぼざりしを、声をつまらせての尊い話であった。

俺の隣に、大谷が座っていた。彼も、まちがえれば、冨士より、先に逝くところであった。そして、54ベッキ分隊での、二号同分隊でもあった。

病癒えて以来、酒席には全く出ない大谷が俺の隣で、高橋の話を聞きながら、コップ酒をあおっていた。

まさに、酒でも飲まなければ、やりきれない心境であったのであろう。そのコップの中に、一雫の涙が落ちた。

×  ×  ×  ×

葬儀におけるクラスの代表は相澤善三郎。それをサポートしたのが、加藤、押本、田中(春)、真鍋、受付が、矢田、幸田、山田(良彦)、中川等々の面々。

ネーピーの伝統よろしく、すべて、相澤の決定に従った。相澤は、死期前一週間に、4回も鎌倉にかよった冨士の親友である。

しかし、海キチの面だけのつき合であったかもしれないが、俺からみて、心のどこかに淋しいものが残らないでもない葬儀であった。

と、書くと、葬儀委員の諸兄に本当に悪いと思う。

ではあるが、本当のところ、葬儀参列のクラス全員で、棺を前にして、「江田島健児の歌」「同期の桜」を、冨士へのレクイエムとして捧げたかった、と思ったのは、俺一人だけではないであろう。

あの海キチの冨士に贈る最高のものは、′旭日の軍艦旗で棺をおおい、われらが心の斉唱でレイクエムをかなでることであったはずである。冨士も、流星の如く飛び立ったが、きっと、きっと、そう思っていたであろう。

俺は思う。英子夫人にしても、そうであったろうと。

しかし、それを止めにした相澤以下委員諸兄の考え方の方が、確に正しい、と、いまにして考えている。

冨士家の今後は、仲見世の中に、生活の基盤をおいている。人一番、ある意味でうるさい下町の気分に、相反することは、この際遠慮した方が良い、とするのが、その決定であったのであろう、と想像する。

確に賢明な決定であった。

しかし、冨士にとっては、さびしかった。しかし、冨士は死んだのだ。あとに残る家族と、その生きる仲見世という現代に遠慮して、われわれのアナグロニズムは、そっと後ろに退いて静かに、おこそかに、そしてしめやかに、われらがクラスメート冨士栄一は、その愛機「流星」の名の如く、暗い宇宙の彼辺へと、旅立った。戒名に曰く、

久遠院天栄流星居士

心からご冥福を祈り、柳か、追悼の辞とする。

(なにわ会ニュース53号34頁 昭和60年3月掲載)

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