TOPへ     物故目次

平成22年4月29日 校正すみ

72期主任指導官原田耕作氏逝く

樋口  直

「原田さんが亡くなったって?」

「ソウ、何でも親父がネービーで同期だった小灘の所へクラスの方を通じて遺族からニュースが入ったそうだ」 

原田さんの訃報が耳に入ったのは亡くなられてから既に十日以上も経ってからだった。

近くには浅沼君も住んでいた筈だが特にそちらへは連絡は無かったようだ。不覚な話ながら、お加減の悪かった事すら誰も知らなかった。

我々のクラスとは最初から一番縁が深かった筈の原田さんではあったが、江田島時代の他は意外と接触は浅く、戦時中に同じ所轄に配置された者も無く、戦後になってからも親しい往き来は殆どなかったように思う。

戦後、仙台在住の高橋君や豊田君が路上で偶然お眼に掛り挨拶を交した外は、浅沼、桑原君等を含めた現地での級友の集いに出席をお願いしても原田さん持ち前の潔癖と遠慮からかなかなか腰を上げられなかったと云う。

唯一の例外として田中春雄君が東京から訪仙した際、()っての豊田君の慫慂(しょうよう)にそれではとヤット御輿を上げられ集った面々と懐旧談に花を咲かせたに止る。

昭和27年以来の恒例の行事である國神社での参拝級会には昭和44年と58年の2度御出席を戴いたが、ユックリ膝を交える事もなく慰霊祭が済むと一言挨拶を残されてソソクサと引き揚げられたと聞いている。

其の際、此の慰霊祭行事に対し過分な御芳志を頂戴し、時の幹事であった富士、相澤の両君を初め出席者一同いたく恐縮したと当時の事が記録されている。

惟えば今を去る47年前、日本全国から集まった650有余名の生意気盛りの中学生が第72期海軍兵学校生徒として江田島の校門を(くぐ)、初めて接したのが期主任指導官、原田中佐其の人であった。

此の時の最上級生徒は温厚をもって鳴る第69期生。此の瞬間に我がクラスの「クラスカラー」は彩りされたと云える。

尤も原田さんの下には名補佐役、後に久遷宮徳彦王殿下の御付武官、野口少佐指導官が控えて居られ、上品柔和な風貌に似ずファイト満々の森大尉指導官、発声に梢難あり訥々として指示を垂れる山本中尉指導官、教官だか一号生徒だか区別のつかぬハリキリボーイズの石隈、柳田、安元の中尉指導官の面々が揃って居られ、初対面にも拘わらず新入生徒一人々々の姓名を的確に呼んで其の度肝を抜いたのを手始めに、それまで中学校の上級生として怖い者無しでフンゾリ返っていた我々の鼻をヘシ折り、牙を抜き、アッと云う間に婆婆の垢を掻き落されてしまったのであった。

入校して最初の行事は入浴であった。新生徒館の大浴場で身心を潔め、婆婆の装束からまっさらの海軍将校生徒の制服へと脱皮する。

曰くエフユー、曰くアーマー、曰くホワイトシャツにハードカラー、ガーターにサスペンダー、第一種軍装、そして腰には短剣。

それは正しく俗塵を一掃する為の「禊ぎ(みそぎ)」であった。

斯くして始まった生徒館生活は、一号生徒から四号生徒まで40名程の縦の集まりである分隊を単位として自習室、寝室を共にし、生徒各自の自律の精神に則り生徒隊の自治に任されていたので生徒間の絆は寝食を共にする4コ学年の分隊員同志の結線が深くなるのは当然であったが、海軍においては更に同期生間の横の繋り、即ち同期会を重要視する伝統が有った。

入校教育を消化し、上級生のお達示や修正にも慣れ、各種の別科訓練もコナせるようになり、初めは殆ど聞き取れなかった週番生徒の拡声器による命令や達示も辛うじて判読できるようになっても相変らず無我夢中で生徒館内を右往左往していた四号生徒全員が其の後一堂に会したのは古鷹嵐が身にしみ男心がつき始めた頃、原田主任指導官の招集による教育参考館講堂における72期期会であった。

この会合で初めて海軍に於ける「期会」なるものの重みと意義について説明を受け、ネーパルオフィサーのモットーとも云うべき

「スマートで目先さが利いて几張面、負けじ魂これぞ船乗り」 

の洗礼を受けたと記憶する。

原田さんは特に「負けじ魂」の一点を強調され我が72期の「ナニ」 に掛けて「ナニ糞クラス」として団結して頑張るようにと訓示を結ばれた。

其の後我々の受けた原田さんの指導教育方針は終始一貫我々を一日も早くマトモでスマートな海軍士官に育て上げる事であったようである。

服装、態度、言葉使い等、礼から始まって生れ乍らの三代将軍徳川家光を例に将校生徒としての衿持(きょうじ)と責任の自覚、自律自治の精神の具現、軍人消防夫論、文武両道に達する為の学業専念と身心の錬磨等々、期訓育や分隊訓育に於ける原田さんの発言は所謂軍人錬成と云うよりは精神訓育、躾教育に重きを置いたそれであり全期間を通じて頬を緩めて冗談を云われたり白い歯を見せたりされたことは無かった。

我々が兵学校において直接原田さんの薫陶(くんとう)を受けたのは臨戦状態(支那事変)にあったとは云え平時編制の時代から戟争が勃発して戦時編制となり諸戦の勝ち戦から「ミッドウェー」海戦を経て「ガダルカナル」島の消耗戦に入り漸く戦況の前途は容易ならざるを感ずるに至った約二年間の事であり、此の問兵学校長は新見さん、草鹿さん、そして井上さんと三代に亘っていた。

戦時に入ってからも実施部隊である海軍の戦斗行動とは別に初級士官の基礎教育機関である兵学校では世の波風から隔離して厚く保護されており、生徒は平時そのままの姿で勉学に勤しんでいた。従って戦況の推移に一番疎かったのは兵学校生徒であったと云えよう。

卒業する迄は、それが将校生徒の本分であるとされていたのである。

尤も戦争が長引くにつれ第一線帰りの新任教官の数も殖えて来るようになり自然に(みにく)戦場の風がそれ迄聖域を保っていた生徒館の中にも漂うようになったのであったが。

昭和17年も押し詰り一期上の71期生を送り出す頃、原田さんも「ガダルカナル島海軍警備隊司令」を拝命し兵学校を退庁される事となった。当時の南方の状況からして恐らく此の発令は原田さんの死地赴任を意味するものと思われた。間もなく最上級生となる我々も愈々来るべき時機が来たとの感を深くしたものである。

後に聞く所に依れば此の死出の旅路の途次ラポールの南東方面艦隊司令部に草鹿長官を訪ねられた際、前兵学校長として旧知の長官より「ガダル」進出に待ったを掛けられ、次いで中央との打合せの結果原田さんの現地赴任は取止めとなった由。当時の現地における状況判断とすれば妥当な処置とは云い乍ら、図らずも九死に一生を得る事となった原田さんとしては少なくとも犬死丈はせずに済んだ草鹿さんの此の処置を後々まで大変徳として居られたと云う。

年が明けて昭和18年の秋、我々第72期生も繰上げ卒業する事となり曲りなりにも速成の一期の少尉候補生教育の後、夫々第一線の実施部隊に配属された時には多大の犠牲を払った「ガ」島も既に失陥して居り、山本聯合艦隊司令長官も南漠の地に万斛の涙を呑まれた後であった。

原田さんも予定通り我が鼠輸送のベルトコンベヤーに乗り現地に着任して居られたら既に彼の地の露と消えて居られたかも知れない。

其の後南方においては原田さんの進路と我々の誰かとのそれが交叉した記録は見当らぬ。

斯くて原田さんと我々との再会は原田さんの内地帰還まで待つこととなる。

そして此の頃より連合軍の対日反抗のテンポは急迫する。

恰も山本長官の戦死を機としてそれまで満を持して人員資材の補充に専念していた米軍の矢が切って放たれたように。

逆に日本軍はそれ迄に延びきった戦線の補強もままならず其の補給線を維持する事もできず、占領していた南方の島嶼や海域は敵機動部隊や攻略部隊の跳梁(ちょうりょう)に委ねられ、或いは玉砕し或いは自滅し、運の良い場合でもそのまま見捨てられ、守備部隊は生きながら放棄されたのである。斯くして本土防衛の為の抵抗線は逐次後退しニューギニア、南洋群島、比島、小笠原諸島、沖縄とジリジリ縮少し追い詰められてゆき我がクラスメイトも此の戦況の推移と共に次々と国難に殉じていった。

そして遂にはとても作戦とは言い難い肉弾特攻に僅かな活路を見出だそうとするに至る。

此の特攻に最多数の生命を捧げたのも我がクラスであった。

サイパン島が玉砕し、戦の舞台が比島攻防戦に移った頃、原田さんは呉防備隊首席参謀として佐伯で活躍しておられた。

当時佐伯に居た我がクラスメートは大艇隊の池上勝也、濱田正俊の両君、三座水偵隊の竹崎慶一、矢尾正衛、和田 智の三君、海上護衛総司令部対潜訓練隊の樋口 直、同呂500潜水艦の藤井伸之君、そして佐世保空から対潜哨戒、攻撃訓練を兼ねて豊後水道対潜警戒隊として進出して来た井尻文彦君等であった。

 高い消粍率を示した働き盛りの初級士官のポストを埋めるように駈足進級を重ね早くも中尉として各部隊の士気軍紀昂揚の中心的存在と自負し一般の中堅幹部の積りで張切っていた我々も、かつての教官だった原田さんの眼から見れば未だ未だ未熟な青二才に映っていたと見えて、折に触れては呉防戦司令部から電話で、又時には直接司令部に呼びつけられては江田島時代さながらの指導を受けたものである。勿論指揮系統は異なる為其の内容は趣く限られた範囲ではあった。そして最終的に我々の軍務の合間の息抜きの場として佐伯市内に所謂下宿を設定して下さるに至る。仮令海軍の指定した場所とは云え、水交杜にあらざる「海軍クラブ」とか「海軍寮」とか称する料亭は何れもイカガワしい場所で、純真な「お前達」が立入るのには適当ではない、と云う次第であった。

親の心子知らずの例に洩れず、原田さんの顔を立てる意味合いで一夕,佐伯空の矢尾、和田と小生の3名でスモール級会を此の下宿で開いた外は専ら大分、別府迄遠征するのが常であった。其の悪童達も今は喪い。

恩師と教え子が協力して作戦を樹て、机上の兵学校教育の成果を実地に当て嵌めることとなったのは後にも先にも此の方面の敵潜掃討作戦のみではなかったか。

即ち終戦の年の3月、大和を旗艦とする所謂沖縄水上特攻部隊の豊後水道出撃時前路哨戒である。佐世保空、佐伯空の電探装備の「東海隊」、佐伯空の磁探(C装置)装備の水偵隊そして基地防備隊及び対潜訓練隊所属の海防艦、駆潜艇の総力を挙げて呉防戦司令官の統一指揮の下に3日間に亘って実施した水上特攻付随作戦である。

未確認ではあったが、大和田通信隊より借り受けた二世通信員による敵潜間電話通信傍受(平文)によれば、少なくとも敵潜二隻が消息を絶ち、他を此の方面海域から遁走せしめた筈であった。

因みに水上特攻部隊の夜間出撃に当り、此の危険海面で敵潜に依る被害は受けていない。

此の作戦を最後に、小生の部隊も安全訓練海面を求めて佐伯を去り裏日本の七尾湾へと移動し、原田さんも其の後仙台の松島空司令に転出された。

原田さんとは其後お目に掛ることはなかった。終戦直後の8月18日、千歳基地から百里空へ99艦爆空輸の途次、松島空に一泊した押本は防空壕の中で原田大佐にお目にかかったという。

今、振り返って感ずることは、我々の眼に映った原田さんは謹厳実直、廉潔孤高の士でありどちらかといえば融通の利かない方であった。我々に対しては常に「清く正しく美しく」其の本分を尽くし模範的海軍士官を育て上げる事に専念された典型的な兵学校教官であった。我々も原田さんに対しては甘える事もなれる事も出来なかった。只々仰ぎ見る丈であったように思う。

此の原田さんに親しく薫陶を受けていながら、どうしてこのようにルーズで、サボリ屋で、いい加減な教え子に育ってしまったものかと我乍ら恥入るばかりである。

然し1,2の例外を除いては概してウチのクラスはマトモで温和で実直な躾の良い「クラスカラー」を持っている。

人呼んでこれを「お嬢さんクラス」と云う。

昭和62年6月11日、「お嬢さんクラス」育ての親原田さん逝く。享年88才

 

注 72期主任指導官

15・12〜17・11 原田耕作(49期、62・6・11没)

17・11〜18・3 江坂 弥(50期、18・11・25 3根参謀タワラ島で戦死)

18・3〜18・9 人佐俊家(52期、19・6・19 601空司令、マリアナ沖海戦大鳳で戦死)

(なにわ会ニュース57号4頁 昭和62年9月掲載)

TOPへ     物故目次