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平成22年5月2日 校正すみ

飯野伴七君の霊に捧げる弔辞

市瀬 文人 

 去る9月3日、君の訃報を半信半疑で伺った 君を病院に見舞ったのが、その10日前で、君はあれほど元気たったのに

「澎湃寄する海原の 大波くだけ散るところ・・・・」と、君は張りのある声で江田島健児の歌(海軍兵学校の歌)を歌うことも出来た。、終始笑みを絶やさず会話をし、病室を辞する際の君の握手は、病床にある人とは思えない程力強かった。 今思う.あの応接は、君の私に対する最後の心遣いだったのでは、 と.君との出会いは、昭和15年12月、海軍兵学校第72期生徒として.同じ分隊で起居を共にした時に始まる。2年目の分隊編成替えでも、2人は偶然にも同じ分隊に編入されて、「貴様」と「俺」とは一暦親密の度を増した。入校後最初の夏季遊泳訓練が始まった時、埼玉県熊谷中学校出身の君は、泳ぎが苦手で、赤帽組の特訓を受けた。が負けず嫌いの君は、短時日で泳ぎを修得し、海上1000メートルの競泳の際、全コースを一度も休まずクロールで泳ぎきった。監視艇上より、これを注目していた分隊監事から、君は皆の前で絶賛された。一生を通じて万事に積極的で率先遂行した君の、面目躍如の一例である。

昭和18年9月、兵学校卒業と同時に、2人は共に飛行学生となり、翌年8月、君は戦闘機乗りとして、私は水上機乗りとして、それぞれ任地に向った。その後の消息は、お互いに知りえないままに終戦を迎え、戦後再会して、同期生戦闘機乗りの7割が散華した中を、君が生き抜いて来た事、君は主として上海の基地で同方面の航空戦力の一翼を担って活躍した事等を聞いた。その後機会があれば、共に杯を傾け、ある時は君の住いの新築祝いに、また、君の小唄の発表会に招かれたり、また、何回かの相模湾のセーリングで江田島時代を偲んだりして、いろいろと思い出は尽きない。

君はかって鶴見運輸株式会社の役員を経て、菱栄産業株式会社の社長を勤め上げた後も、のんびり過ごすこともなく、旧海軍諸団体の世話役を引き受けて活躍し、逝去直前まで、湘南水交会の名誉会長であり、また、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の理事であった。

己の健康を顧みる暇も無く、人の為に尽くして逝った君が惜しまれてならない。

永年の君の友情に対し、ここに心からの感謝を捧げます。

平成14年9月6日

海軍兵学校72期 市瀬文人

(なにわ会ニュース88号9頁 平成15年3月掲載)

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