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一周忌を迎えまして 

飯沢 和子(治の妻)

 九月八日、雨の合間を縫って、お仕事のお忙しい中多くの方々に御出席頂きまして、無事一周忌の法要をすませて頂きまして有難うございました。

 心より感謝申し上げます。この一年、何事も主人任せでおりました私には、唯々夢中で過して参りました。振りかって見ますと、始めて主人と知り合ったのが二十七年三月末の良く晴れた温かい日でございました。江の島海岸より(未だ立派な江の島への橋はありませんでした)砂浜を歩きながらつい足の向きますまま、鎌倉八幡宮までまいりまして、中学生の頃の話を夢中になって聞かせて下さいました。帰りにふと、立ち寄りました喫茶店のサンドイッチに砂が入っているとか文句を言いながら頂くのを見まして、この人と一緒になったらさぞ大変でしょうと思いました。

 兄二人を戦死させました私の父は主人の現われましたことにすっかり有頂天になっておりました。毎日鼻歌を口ずさみ、来客にはその都度自慢しておりました。長女が産まれました時には、母が呆れる程、目も見えないうちからオモチャを買い与え、あやしたり、すっかり親馬鹿に成ってしまいました。子供達が幼堆園に通います頃から、稽古の何のと、子供中心の生活に成ったようです。そして毎年夏休みには熱海の起雲閣に行くのを楽しみにしたものでした。ゴルフもこの頃より始めました。

 三ツ輪石油の責任を一身に任されましてからは早朝より夜遅くまで大変でしたのに一言も会社のこと、仕事のことは私共には何も話してはくれませんでした。

 二人の娘は、女の子だから情操豊かな娘にとの願いから、小学校からミッションスクールを選び、十二年間カトリック教育を学ばせました。今になってみますと、この頃が一同健康にも恵まれ一番幸せな毎日でした。

 四十七年九月八日と思いますが、突然頭が痛いと言いながら丸の内のとある病院の先生に注射をして頂きまして、会社の社員旅行で水上へ行ってしまいました。

 風邪ぐらいに思っておりましたのに、言葉が思うように出せないと申しました時にはピックリいたしました。それから二週間程、高橋先生のお世話になりましたのが、そもそもの始まりでございます。幸い、それから平常の生活に戻れまして以来、四十九年十二月九日次女雅子の大学入試を一週間後に控えまして、信州の母が亡くなり、暮の忙しい時期と重なって無理があったのかも知れません。

ちょうど石油ショックの大問題の頃でもありましたし、翌一月の中頃から視力が落ちた、落ちたと申しました。眼鏡を替えなくてはねなんて申しております中に一月二十三日夜、吐気と頭痛、めまいを訴え、少々方向オンチになりました。夜の明けるのがとても長く、どうしても、今日は重要な会議があるから会社に行かなくてはと申しますのを、早速高橋先生に入院させて頂きましたが、思いの他重症に気が付き、今度は長女の大学の後期の試験が、次女は高校の卒業試験が始まり、父の容態を案じながら二人で留守番の日々が続きました。

 藤沢市民病院の阿部先生に、命に別状はありません。一ヶ月待って下さい。社会復帰ができますよと言われ、子供達にも心配させまいと、病院の往復の列車の中では風邪をよそおっては通いました。

 二月の未頃から葉書を書いて下さり、入浴も許されまして希望が見えてまいりまして、本当に病院中飛び跳ねたい思いでございました。雪が消え、樹々のめぶく頃、次女の卒業

式には、父に変って敦子が私と出席しました。父親に出席して頂けないことはとても残念でしたが、病室に赤飯を運び、喜んでいただけました。

三月十二日無事退院、五月初めよりポツポッ会社通いを初めましたが、未だ無理ではないかと思いながら途中まで送って行き、帰りはまた迎えに行く、日々が始まりました。会

社に行けることができますことを、この上なく喜んで通勤しておりました。バイパスが通っていますからとおっしやつて下さいます阿部先生のお言葉を信じ本当に幸せに思いまし

た。あれから一年半責任ある椅子に坐って、絶対に弱音を申しません。

辛いことも大変なことも数々ありましたことと思いますのに、疲れたなどとは一言も申しませんでした。

 夏頃から口数も少なくなったように思います。以前お客様が気の毒ねと言うぐらい一人で、初めから終るまでしゃべり、聞き役で帰られる人が多かったようです。体が疲れていたのか、昨年夏にはどこにも行くのをいやがりました。それでは気の進まない旅は、今年は止めましょうと、日曜はせめて近所を散歩しました。

九月三日、日曜日に新しい公園を見つけ、また、何時もここに来ましょうね、と約束したばかりでしたのに、次女を六月二十二日より二カ月間、アメリカ研修尿行に出し、長女

は最後の夏休み、せめて一泊だけと出しました。

七日夜、あんなに気分良く、今日は全部回って来たよ、と帰られ、入浴をすませアユの塩焼きを久し振りに喜んで頂き、食後の果物も、何時もより美味しそうに食べて呉れましたのに、九時には床に入り、もう十時半頃には気持ちが悪いとの言葉を最後に何もお話のできない人になってしまいました。

ひどい雨の夜でしたが、先生や看護婦さん方が、夜通しのお手当して下さいました甲斐も無く、こんな簡単に何物かの手で別の世界に連れて行かれてしまうものでしょうか。

 せめてもう二、三年でもいい、元気でいて下さったら子供達がと思いますのに、主人が何時も口癖のように、もうこれ以上子供達は成長させるなと申しておりました。

これからは別の世界からそれぞれの道を選んでそれぞれに新しい人生に踏み出して行くことでしょう。様子を、隈なく見守ってあげて下さいと祈るのみでございます。子供達には少々厳しさの中に甘い、私には正に家庭的な面のある良きお人でございました。ある先生の書に、喧嘩をしない夫婦なんて進歩がないと書いてありましたが、正にその思い出は一度もございません。非常に残念に思います。もう絶対にできませんもの。これからは主人の元気な頃より始めました好きな道を十分楽しみながら二人分頑張って行きます。 

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