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井上成美中将に思う

敗戦を胸に秘めつつ次官へ

帯刀与志夫

 私が、もと海軍兵学校長井上成美中将(のちに大将になられたが)の訃報に接したのは四年まえの昭和五十年十二月であった。その時私は、奇しくもかつての敵国アメリカに、社用で出かける機上にあった。羽田を発って間もなく、何げなくスチュワーデスの手から受け取った新聞の片すみに、八十六歳のその人の死は小さく報ぜられていた。

一瞬私は、三十数年の歳月をとびこえて、呉から東京に向かう急行列車の座席にいる、若き日の自分に引き戻されたような気がした。兵学校校長の職を退き、海軍次官に任ぜられて今、米内海軍大臣のもとに赴任する井上中将の、毅然たる姿が浮かんできたのである。その日私は、中将の次官着任に際して、東京までの随行を命ぜられていた。当時極秘ということで、随行も大尉であった私の、呉駅での見送りも仙波先任副官ただ一人という,まことにひっそりしたてんにんであった。

その出立の日の朝、朝礼台として据えつけられた軍艦千代田の艦橋に立った中将は、第二種軍装に襟を正した全校生徒を前にして、校長としての最後の挨拶をしていた。

 「・・・・次の世代を築くため、諸氏は生徒たる本分を忘れず、学業訓育に励まれよ」と結んだ言葉は、日ころと変わらず淡々としたもので、戦争に臨む軍人としての心構えや、戦局あわただしい中の気負いに満ちた言語など一切なかった。

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 やがて腰門を中心に堵列する学校職員、生徒の「帽フレ」に軽い会釈を返しながら、小用峠をこえて桟橋に到着した中将は将官旗ひるがえる内火艇に気軽に移乗されるや、そのまま艇内に入り、全くの無表情。名工の手になったような、彫りの深い端正な顔を正面向けたまま端座して動かず、胸中何事か期するものを秘めているかのごとくであった。

「前進微速」と張りのある艇長の合図の声とともに、内火艇は静かに桟橋を離れ、呉市に軸先を向けたが、ふりそそぐ八月の陽光は眩しいばかり。古鷹山の濃緑のシルエットを映した瀬戸内の海は、波静かにしてあくまで青く澄み、カモメが海上すれすれにキーキーと鳴きながら白い羽はたきを見せ、すべてが明るくのどかそのもので国の存亡をかける戦のさなかにある風景とはおよそかけはなれていた。

しかし、そのころ戦局はめまぐるしく動き前年の十八年三月ガダルカナル島の敗退、アッツ島守備隊の玉砕以来戦況ますます不利に傾き、その年十九年二月には米軍マーシャル群島上陸、六月米機B29の北九州爆撃とつづき、七月にはサイパン島を奪われるなど、同月ついに東条内閣は退陣し、陸軍大将小磯国昭内閣の登場をみるに至った。教育の府である海軍兵学校でも、第一線から教官に転入するもの、第一線艦船勤務に転出するものと教官の異動も激しく、戦局のただならぬことが日一日と肌身で感ぜられるころであった。

その最中の井上校長の海軍次官への転出である。その要請が米内海軍大臣から直接校長に電話でくるというので、あらかじめ交換手を女子から兵員下士官に切り換える手配を私は命じられた記憶がある。

呉駅を滑り出した列車が間もなくトンネルを抜けるころであった。それまで終始無言で厳しい眼を窓外に向けていた中将が、ふいにかたわらの私に声をかけられた。

「帯刀君、長い間世話をかけましたね」

 今まで官名をもって呼ばれつけていた私は突然「君」と呼ばれたことに戸惑いを覚えた。その時何と答えたか、もう今は思い出せもしないが、そのあと中将は、毛糸玉をほぐすようにぼつりぼつりと、自分の幼い日の話などはじめら。仙台に育ち、広瀬川の夕陽の美しさなど口にされたが、ふいに言葉の調子をかえ「君は大学で何を専攻し、何の学科に興味をもったか」などときかれ、「歴史は政治史であれ経済史であれ、曲げて伝えてはならぬ。最近の日本では、歴史が表面的でキレイことで終わらせようという風潮があるが、あれはよくないことだ。その点、一度君も英国の政治史などを読むと勉強になるよ」と教えられたりした。

 

 

 

また、英詩には自分の好きなのがあるといわれ、ポケットからとり出したメモ用紙に、

 TO LIVE IN HEARTS WE LEAVE

BE HINDS. IS NOT

(あとに残る人たちの心の中に生きられるならは、死ぬことにはならない)と。

英国人トマス・キャンベルの詩をすらすらと書きつけて手渡された。そこには、開戦当初トラック島にあって、第四艦隊を指揮された名提督の姿はなく、学生時代の恩師の言葉をきくような暖かさが感じられた。しかしこの人が、戦局多難な時期の海軍次官という重い使命を負い、これからその任務につかんとすることを思うと感無量なものがあったことを思い出す。またその車中対話の中で、私が.特に印象深かったのは、中将の口から戦の話,江田島での思い出話など、ついに一度も出なかったことであった。

列車が深夜近い東京駅にすべり込んだ時、身支度を終え静かに立ち上がった中将は、きちっとした姿勢で私に言われた。

「帯刀君、今日は君に世話してもらい、久しぶりに気楽な旅ができたよ。これからはこのような旅はないだろうな」

 そしてそのあと、私の眼をしっかりと凝視し言われた一言は、今も深く私の脳裏に刻みこまれている。

「君等は次の世代の担い手になるのだからこの上とも勉強しなさい。近く必ず君たちの時代「が来るよ」

 

 

プラットホームには海軍省から派遣された副官が一人ぼつんと、この新しい海軍次官の出迎えに来ているだけであった。

 「失礼します」

と挙手の礼をして中将のもとを去った私は,それ以後再びその人に会うことはなかった。

 最近、阿川弘之氏の著書などを読んで知ったことだが、井上中将はそのころ既に、胸中深く敗戦は必至であると覚悟していられたようである。

 「これ以上戦をつづければ、貴重な人命と国富とを失うだけでなく、和平の条件も日一日悪くなると思われます。私は今から、いかにしてこの戦争をやめるかの研究を始めますから、大臣かぎりご承知おきください」と着任早々米内海軍大臣に申し出たと記されてある。

また,昭和二十年沖縄が落ち、特攻隊の太平洋沿岸配備にあたり、乗務員の急速養成が問題となり、当時海軍兵学校に数千名の生徒がいたところから、この生徒全員を特攻隊員に充当する話がでた時、「万一敗戦に終わった場合、日本再建の根を切断するようなものだ。生徒は将来の日本のための貴重な卵である」と断乎反対して、その提案をつぶしてしまったのもまた、この井上次官であった。

井上中将の私への最後の言葉であった「近く君たちの時代が来るよ」の言葉のもつ意味が、今更のごとく思い出されてならない。

戦争終結後この人は、「責任を感じる」と自ら横須賀長井の寒村に引き込んだ。公の席に出ることは,一切なく,村の子供たちにギターを弾いて聞かせたり,英語を教えたりして,ひっそりと孤独の生涯を終えたと聞く。

この清廉潔白な,古武士のような生き方をした人に本当の男のロマン感じるのは私一人だけだろうか。

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