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平成22年5月2日 校正すみ

石津 寿君を送る

樋口  直

平成3年1月4日、例によって「湘南クラス会新年会」が鎌倉は小町通りの中華料理店「二楽荘」で開かれた。

世話役は万年幹事の石津君、このところクラス会とのつきあいは悪く、顔を出すのは新年のこの会だけという数年が続いていたが、この春には多忙だった公職を全部退くことにしたから、これからは級会にもゴルフコンペにも出られるようになる、というのがこの時の君の挨拶であった。

その言葉とおり、5月16日の湘南CGCゴルフコンペには久し振りで参加した。君のゴルフは陽気というか、賑やかというか、とにかくゴルフ場内、何処のホールからでも何番をプレーしているのか直ぐ判るのが特徴で、君のいる所大きな笑い声が絶えないのが常であったが、この日ばかりは何故かコース内は静かで、「オイ今日は石津が来ていたはずだがプレーしていないのかなー」と皆(いぶか)しがっていた。

次いで6月2日の國神社慰霊祭には遂に顔を見せず、その頃歯の治療に通っていた小生に「どうも腹の具合が良くネーんだよな、腹水が溜っているらしく疲れ易いし苦しいんだよなー」と、それでも結構元気にボヤいていた。東海大病院に診察と検査の為に通っていたが、症状としては胃の外壁が肥厚し腹水が()まっているが、原因は良く判らず、内部には癌の兆候は見られないとのことであった。間もなく通院検査では中々原因がつかめず、疲労も甚だしいので入院して調べてもらうことにしたとの電話を受けた。

 鎌倉の高橋猛典ドクターは、自分で診ていないので何とも言えないが、どうも腹水の溜まるのが気になるとのことであり、山田良彦の話では、親戚の者に同様の症状で亡くなった方があり、死後解剖の結果、膵臓に問題があったことが判った例があるという。

本人は早く原因が究明されて治療に入れば直ぐにも治ると思っていたようであるが、その思惑とは別に若しやとの疑惑に()られたのはその頃であった。

入院してからもオペ等の積極的治療はできず、身体の衰弱も進み、内科的治療のみを受けるようになったが、本人のたっての希望で、休日の土・日曜日は自宅で過すこととし、飽くことなく大磯の風物に見入るようになっていったという。

湘南中学同窓のクラスメート、松山実・猿田松男の両君が病院に見舞ったが、面会謝絶の為会うこと叶わず、空しく引き返したのもその頃のことであった。

夏の暑い最中を、腹水を抱えてベッドで呻吟(しんぎん)しているのも楽なことではなかったろうと思われる。多少でも快方に向うようなら見舞いに行こうと語らいつつ、9月に入って間もなく高橋ドクターを.リーダーとする一行が欧州旅行に発つことになり、帰国したら何とか彼を元気付ける方法を考えようと話し合っていたものである。

9月16日帰国、′早速ながらとにかく花でも病室に送ろうと言っていた矢先、22、23日のお彼岸連休を機に、自宅に帰っていた君が腹水の心臓圧迫による急性心不全で(たお)れ、急遽病院に担ぎ込まれるに至った。

長男の勉君から電話をもらい、遂に主治医から膵臓癌を宣告され、余命は長くても半年、短かれば・・・との連絡を受けたのはこの直後のことであった。

偶々、機関科の上田敦ちゃん共々最後の患者という巡り合わせになった小生は、いくばくか判らぬ残された日々の為に、せめて花でも絶やさぬようにして慰めたいと、湘南地区在住者はもとより湘南中学の同窓生、兵学校同分隊、海上勤務時の同僚、その他歯の患者の経験者等、縁の深かった連中と語らいその手配をおわった。

そして十月五日突然の訃報!

覚悟はしていたものの余りにも呆気ない最後であった。家業の歯医者を嫌って、ネービーを志したと自称し、戦争中は戦艦「榛名」の通信士、巡洋艦「鹿島」航海士、そして大型防空駆逐艦「冬月」の航海長として終始海上の第一線に転戦し、最後まで生き残った君の終戦は昭和20年8月15日ではなく、5日後の20日、下関沖にてBー29の敷設機雷に触雷、後甲板で出港指揮をとっていたクラスメートの水雷長吉成 淳君の戦死まで続いたのであった。

戦後、心ならずも継ぐことになった家業の歯科医師として平塚に診療所を開業、純子夫人と結婚後、話の面白い先生、治療の痛くない歯医者さんとの名声が高く、仕事も繁昌した上に、男児ばかり三人の子宝にも恵まれた。

子供達が長ずるに及びそれぞれ世帯を持つ頃、「女の子を持っている奴はイーよな、男ばかりじゃ結局・・・みんな取られちゃって合わネーよな」とブーたれていたが、「オイ一番イイのをやっとこさ取り戻したからなー」と片眼をつぶってニヤリとしていた君。

その後は父子揃って一緒の診療所で歯医者の途を歩んだが、「勉のヤロー、椅子に坐ったまま診てやがる、患者に失礼じゃネーか」

「俺のやり方は古くさくて見ちゃいられないと言いやがる、こいつばかりは腕と経験だ、知識じゃネーよな」と文句を言いながらも嬉しそうな毎日だった。

母親が脳卒中に斃れ、その看護に寧日なかった純子夫人、そしてその純子夫人も高血圧に倒れ、今度は勉君の嫁さんに面倒を見てもらうようになった時、「何の因果で石津家の嫁は、次々と姑の世話をしなきゃならぬのだろう、全くこの二人には申訳なくて足を向けちや寝られネー」と心から感謝をしていた君。

ゴルフで遠出をしても、旅行の途次も「これはウチの嫁さんに」と必ず土産物に手を出していた君が眼に浮かぶ。

我々クラスメートの間では宴会係士官、余興係士官として一世を風靡(ふうび)し、君の酒脱な話術と剽軽(ひょうけい)な言動は常に座談の中心となり、ホンワカとしたお色気話は他に例を見ず、何時も周囲に人が群がったものである。

殊に今は亡き宮地栄一との掛け合いは、今思い出しても抱腹絶倒の秀逸さであったが、家族や歯科医師の仲間の眼に映った石津君は、謹厳実直、石部金吉の真面目人間で、どちらかと言えば近寄り難い怖い存在だったらしい。

開業間もなくクラスでは最初の患者となった大岡要四郎をして、「歯を削っている時、ヤスリを呑まされちゃったところ、石津の奴、お前の胃袋が磨り切れてもドーつてことないが、独逸から輸入した高価なヤスリをドーしてくれる」と居直られたと慨歎せしめた君も、平塚の歯科医師会長に推されてからは、得てしてバラバラになりがちな天狗の集団を、強もてのリーダーシップを以て良く取りまとめ、ワイワイガヤガヤの社交倶楽部的傾向を改め明確な方向付けをする意志決定機関とし、更には歯科医師政治連盟を創って、政治の場にも発言の足場を築いて存在意義を確立する等、その功績は見るべきものがあった、とは彼の跡を襲った杉山元現会長の彼の後任を引受けるのはとてもじゃないが楽ではないとの思いを()めた述懐である。

「ウチの親父は固物で融通の利かぬ所がありまして、何彼とクラスの皆様にも御迷惑をお掛けする事が多いと思いますが・・・」とは長男の勉君の挨拶であり、「主人は本当に行き届いた心の優しい人でした。私が倒れて伊豆でリハビリ中も毎週のように見舞って呉れましたし、家に帰れるようになってからも身体が不自由で汽車旅行などは思いもよりませんでしたので、自分で運転する車に私を乗せてクラスの奥様方や先生方とのお交際の義理を欠いてまでも、それこそ日本全国アチコチ連れて行って呉れました。これからは其時の楽しかった思い出を胸に生きて行きます」とは純子未亡人の背の君に対する惚気(のろけ)である。

我々の眼には少々行き過ぎとも映った息子の嫁さんに対する思い入れも御本人に言わせると「義父は旧い型のお固い人でしたから、そんな風に考えていたとは私の前ではおくびにも出さず、私はチッとも知りませんでした。義父がシャイだったのか、それとも私の方が鈍かったのか」と言う事になる。彼は遂に嫁さんに対する感謝と気繕いを態度に現わさなかったのだろうか。

其の彼にとって最後の床に在って、高校二年の最愛の孫が四代目を継いで歯医者を志すと宣言した事は何よりの(はなむけ)となった事であろう。

今や君は逝く! 夫々の残された者に夫々の思い出と面影を残して。

海軍軍人を最後迄誇りとしていた君は懐かしい「冬月」の軍艦旗に棺を覆われて。

ドシャ降りの雨の中「海行かば」の吹奏と「三発の弔砲」は今ハッキリと我々クラスメートの耳(たぶ)を打った。

左様なら石津 寿君。

(なにわ会ニュース66号11頁 平成4年3月掲載)

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