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平成22年5月2日 校正すみ

石津 寿君を偲んで

山田 良彦

10月5日例に依って佐藤病院で駄弁って居た所、突然家内より呼出電話、はて、何事ならんと聞けば「石津先生が今朝亡なられたと息子さんから連絡がありました。樋口さんが不在なので家に連絡した」との事。予て入院加療中なるも病状香しくないとは聞いていたがマサカこれ程早いとは! 同席の面々も吃驚(びっくり)、早速加藤に頼み年度幹事の伊佐に連絡して貰った。

その夜樋口と同道、大磯高麗の自宅での仮通夜に赴く。枕辺で彼に対面、やつれてはいたが静かな安らかな顔だった。 

只々冷たかった。奥様、勉君御夫婦の見るも痛々しい御様子に胸打たれ慰め言葉も思う様に口に出来なかった。

5月16日湘南C・G・Cに久方振りで出席して呉れた。4年位前迄はよくゴルフを共にした。彼との約束で拙宅より西の時は小生、東の時は彼が夫々送迎することにしていたので、今日は朝早く来て呉れてコーヒーとフルーツをロにして呉れたが、どうも何時もの精気が無く明るい大声、高笑も出ず.女房が「先生の顔色が良くなかったわ」と後で心配して居た。後日聞く所に依れば身体全体の調子が悪く、通院検査中で当日も検査予定日の所をクラスとのゴルフの方が楽しいからと日程変更の上参加して呉れたらしい。

また、帰宅後「今日は久方振りでクラスに会えて楽しかった。19番での軽食も久し振りで美味しく食べられた」と語って居た由。これがまともな物を口にした最後だったとのことである。

 

小生6月5日猛典先生によって切腹入院中の6月中旬、彼も東海大の病院に入院治療を受けていたが、勉君を介して元気になってからクラスに会いたいとのこと、又樋口との電話では「この(まま)、ワリガアワネーヨナー」と言ったとか。土、日毎に帰宅していた様であるが、9月23日自宅で発作、その儘帰院、10月5日静かに永眼した。最後の頃、自宅の庭を眺め乍ら「これが俺の運命かなあ?」と(つぶや)いた由。自ら悟る所が既にあったのかも知れない。

 

通夜、告別式にはクラスや歯科医師会関係者、その他大勢の人々が参加した。告別式の日は篠衝く雨で、石津の涙雨かな等と話合っていたが、雨中にも拘らず年寄りの人々や巡査さんの焼香が眼につき、彼の人柄の一端を覗いた気がした。樋口がクラスを代表して挨拶をした。流石に彼らしい立派な挨拶で「彼はやるべき事はやり遂げた。親父の跡を継ぎ石津歯科を今日の大盤石たらしめた。唯心残りもあろうが勉君夫妻に後を托し安らかに眠れ」と下手な坊主よりも見事な引導を渡した。

 

棺は駆逐艦冬月会の軍艦旗に覆われ、雨の中に消えて行った。

小生は石津とは生徒時代も任官後も縁が薄かった。明朗な大声の男がいるなあといった印象しか残っていない。昭和47年茅ヶ崎に居を構えてから、近くでもあり湘南クラス会やゴルフで逐次懇意となっていった。小生は勿論、女房、娘に到る迄歯の治療で世話になった。八間通りの親父の代からの診療所に始めて行き、現在の診療所完成の時藤瀬が画いた軍艦「鹿島」の画を樋口・押本・藤瀬等と同道、祝い、歓待を受けた。 更に現在の大磯の屋敷の新築祝と称して押本が鎌倉の何処かで見付けて来た壷を持参、高橋・加藤・押本・眞鍋・辻岡等と押しかけ、体の御不自由な奥様の為に細い所迄心を配った屋敷を拝見、門番には山田が最適といわれ、大磯の滄浪閣の伊藤博文が日本国憲法の草案を練ったという部屋で大変な接待を受けた。また、帰り際に若奥様が大磯名物の蒲鉾を態々持参して下さった姿が今でも忘れられない。

 

彼は本当に優しい性格で母親が西伊豆に療養入院されると毎週車を駆って見舞い、奥様が倒れられるや母親で苦労かけたとの思いもあったのであろう、衷心労わっていた様で、或時未だ新しいクレスタからソアラーに車を変えたので「どうしたんだ」と聞くと「女房の体にはソアラーの方が、乗心地がよくてね、これで、二人で京都や松島にも行って来たよ」と話して居た。ゴルフの往復の車中では、色々くだらない雑談もしたが何時も母親への想い、妻への思いやり、そして妻を支えて呉れる若奥様への労りの話が出ない時は無かった。

又非常に明るく大声で高笑いだった。診療所でも皮スリッパをパタパタさせ乍ら、他の患者に構わず「ソリヤーナイヨナア」「ワリニアワネーヨナア」を口癖に「若い患者は皆息子にとられ、俺は爺と婆ばかりだ」と高笑いしていた。特にゴルフでの石津・宮地・加藤のペアは、全くスコアは別で、フェアウェイ(?)でアリヤ!コリヤーの連発に始まって、大声でギャーギャー、仕舞にはヘル談を始める始末全く楽しいゴルフ友達であった。川奈にも二〜三回例の面々と一泊で出掛け、宮地・石津・高橋の三人に三食(おご)って貰ったのも忘れ得ぬ想い出となった。

 

また、彼は本当に面倒見の良い男だった。毎年恒例の一月四日の湘南クラス会の幹事を二十年以上も引受けて、良く面倒を見て呉れた。

今日の湘南族親交の基盤の一端は彼のお蔭と感謝すべきであろう。昔はゴルフをやった後でも新年クラス会に充分間に合ったが、段々交通事情の悪化に伴い、皆はラウンドを終えて遅刻、悠々参加したが、彼丈はハーフで揚がり、先発準備に当って居た。早朝フェアウェイもグリーンも凍り、加藤が「技は免も角マナー丈は俺が勉君の教育係だと宣言した小田原湯本でも、また、寒い、寒い伊勢原の時でもそうであった。平塚歯科医師会会長を引受けてから、ここ四年間多忙の為殆どゴルフを共に楽しむ機会が少なくなったが「石津の前に石津無く、石津の後に石津無し」との現会長の弔辞に彼の人柄と業績が偲ばれる。

この四月で会長を退く、そしたらゴルフや旅行等大いに共に楽しもう。「遊ぼうナ」「もうすぐだから」「この儘で終ったらワリニアワナイヨナー」の言葉が彼の心情そのものであったかと思うと可哀想でならない。

何故そうも走りまくって早く逝ってしまったのだ!これからが本当の余生というのにー・

御不自由な奥様の事がさぞ気掛りであったに違いない。然し奥様も淋しさの中にも勉君夫妻に守られて必ず気強く生きて行かれるものと信じて已まない。又事業の方は彼のきづいた基盤の上に、勉君そしてジイサンの後を継ぐと語っていた孫の恭平君の手で今後益々発展して行くものと確信している。

どうか、浄済院思誉師徳寿邦居士の安らかな彼岸を祈ってやまない。キット大声で先に逝った連中とクラス会をやって高笑いしているに違いない。

もうすぐ仲間入りするので席を空けて待っていて貰いたい。

(なにわ会ニュース66号13頁 平成6年3月掲載)

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