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遺書(兵学校同期生と妻好子へ)

加藤 孝二

 人の現世の営みは、不文律にて円満遂行し得るを理想とし、法律存するも之によらずして行い得るを上、之に依って処理するは中、之に依って争うは下なりと愚考す。

 他界の際に到ってくどくど書き残すは凡人の証しにて、生前事を定めずとも雲行流水の如く執心なきが人の理と存ずれど、妄者俗人の吾修行不足なり。98%の死を予期せし戦時中は遺書等書き残す気持ちさらさらなかりしも、現世俗に堕し且又小生には子なく、妻好子には血縁の父母兄弟なし。依って駄文を記し諸賢を煩す。乞う、寛容を以て処理せられ

んことを。

 小生、父母、祖父母、兄弟、先輩、知人、友の恩愛を受けし事、一方ならず深く御礼申し上げる次第です。

 就中、父母の恩愛の裡に、海軍兵学校に学び、こよなき体験と、生死を問わず多くの良き友人を得たる事、小生相当の伴侶を得、「正直な人生」を送り得たる事は幸福なり。

重ねて深謝致します。 皆様の御多幸を祈ります。

 

 軍人(もののふ)の数のほかなる我なれど

   小さき幸いをいかで伝えん

      佐藤病院(ドック)にて

        平成元年九月八日

兵学校期会同期生殿.

 

 「第六潜水艇遭難」を最後に歌っていただき度し。

 一糸乱れずたじろがず従容として・・・・と逝きたいが出来るかなあ。

 

  好子殿

今生孤独の君には小生より平常から孤独に対する心構えがあるとは思いますが、念の為申し上げます。

 「人の好意は素直に受けること。助言も然り。但し事の処理の責任は人の助言、強制に依ると否とに拘わらず、自己の責任なり。決して人を頼るべからず。」

 現世を去るに当たり、申し訳なき事多々ありましたが、相知り、相愛し、今日に到る。子孫なけれども、まあまあの夫婦として及第点だったかナアー。お互いドツコイドツコイ

乍ら。

 自愛、今後の幸福な余生を祈ります。トンタン、さよなら。

 

 

旅立ち

加藤 好子

人の別れ、誰しも通る道とは常々思って居りましたが、本当に悲しくつらいものでございます。

十月七日、七十七年の人生を終え、主人は旅立ってしまいました。なにわ会名簿そしてなにわ会ニュースを両手にかかえながら嬉しそうに去って行く後姿が見える様でございました。しばらくお別れして居りました多くの方々にあの笑顔でお話をしに参ったのでございましょう。

 最後迄意識がはっきり致して居りました。

精一杯生き抜いて参りました主人、主治医の先生にしっかりと手をとられ、お別れする瞬間に大きな目を開きました。夢中で私が顔を近づけましたが、先生の方を見て、「これでおしまいですか?色々お世話になりました・・・」と、語っている様な目でございました。

どうぞ皆々様、くれぐれも御自愛下さいまして、大切な日々を御過ごし下さいます様、心よりお祈り申しあげて居ります。又、楽しく人生を過ごさせて戴きました事、主人に代

わりまして深く深く感謝申し上げます。

 フト、主人がかけて帰り、気ぜわしく、

「オイー・−・オソバオソバ」と子供の様に申していましたあの顔、姿が目に浮かんで参ります。

 思い出、それは今を生きるための心の糧

 思い出、それは世を去った愛する者からの水遠の贈り物

 主治医の大淵先生より戴いたお言葉です。

 

 

最後迄人への感謝、人のぬくもり、そして純

剛糾いa針計そわる事が出来ました私は二         川

叫一り、一 ノ                                              一

本当に幸せで”」ざいました。

 

 

友を亡くして

山田 良彦

十月七日夜半一時過ぎ頃だったと思う。加藤君の奥さんから電話あり、とうとう来たかと急ぎ車を走らせた。「オ、加藤〃」といった儘、顔をなぜ乍ら言葉も出ず、手を握ったらまだ暖かかった。奥さんの永い間の献身的な家庭での介護と、主治医の先生の手厚い療養を受け乍ら、本当に加藤はよく頑張った。顔は心なしかなごんで見えた。奥さん、先生の話では、最後迄苦しむことなく大往生だった由、それこそ彼が遺書の中で、「一糸乱れ、たじろがず、従容として逝きたいが、出来るかなあ」と書残した通りの最期だった様である。

本当に彼は、佐久間艇長の歌が好きだった。よく鎌倉クラス会の帰り、タクシーの中で家につく迄「一糸乱れず・・・・・」「言々血あり字に涙」と艶のある声で歌い続けたこと、今でも忘れられない。ゴルフの打上げ、旅行の折、彼の家での新年の集りの時、たけのこ狩り、柿がり、ミカン狩り、いつもこの歌だったなぁ〃

彼は人への感謝、人のぬくもりを大事に期友、遺族を殊の外大切にした。なにわ会の人と人との繁りの本当の要だった。

 そしていつも視線を外さずに、正しくし、曲ったことの大嫌いな男だったと思う。又自分の思った通りの人生を、真直ぐに、頑固な迄に貫き通した、幸せな男だったと思う。

又彼は遺書の中で、「兵学校同期生殿へ」として、

一、「第六潜水艇遭難」を、最後に歌って頂きたし。

二、なにわ会に刀を寄贈、その売却代金を寄附したい。

と附している。

 

 偶々 十一月中旬、京都での攻撃第三飛行隊の集いの後、三方五湖・城崎温泉に遊んだ。途中、三方駅近くの前川神社境内に佐久間艇長生誕の碑があるのを発見、早速訪れ碑の前で艇長の歌を唱って来た。「艇長、生地は福井県・・・」とある通り、同神社宮司の二男として生誕されたとのこと。帰って来て奥さんに話すと、「私達も昔、二人で参って来たんですよ」とのこと、さもありなんと納得。

何れにしても惜しい男を、失った。これからという時丈に、尚淋しさが身に泌みる。

朝早く「山田さん、遊びましょ!」と樋口と二人、ドライブに誘いに来たあの時の、あの茶目気一杯の顔が忘れられない。

彼は今頃、亡き期友、戦友と、視線を外さずに、微笑含んで、お粗末話を語り合っていることだらう。

 

 

加藤孝二君を偲ぶ

市瀬 文人

 三年前までのクラス会々場では、何時も皆に明るい声をかけながら、席につく暇も無く写真を撮ってくれた加藤君、次のクラス会には奥様の同伴を必要とし、カメラは持参されなかった。その後次第に体調が悪化し、奥様懸命の自宅介護の甲斐無く、十二年十月七日遂に未帰還となる。残念ながら実に惜しむべき友を失った。

彼は永年なにわ会の会計、会誌の編集、その他雑用を献身的に超人的にこなして来た、存在価値の大きかった、功労者である。

彼と私が特に親しくなったのは、彼の家に泊り込んで会誌の発送作業を手伝った頃で、私が名簿係を大谷兄より引き継いでからは、多忙の彼から会誌の発送を数年間引き受けた。

二人の性格の違いは却って二人をより親密にさせたと思われる。

 幽明境を異にした今、彼の人柄が偲ばれる事の二、三を、何の脈絡も無く拾って見ます。

彼から直接聞いた話は、多分なにわ会の旅行に参加するために乗った寝台車の中で、ベッドに腰掛けてちびちびやりながら、夜の更けるのも忘れて語り合った時のものである。

第1話 彼が偵察の飛行学生時代、古参の教官との対話。

 「教官、今云われた事は私達が今まで教わった事と違うようですが、間違いではありませんか。」

 「何を云うか、俺の云った事に間違いはない。若し貴様の云う事が間違っていたら、貴様をぶん撲るぞ。」

 「では私の方が正しかったら、教官はどうされますか。」

 傍に居合わせた若い先輩教官が、慌ててその場を収めてくれた。(言葉使いは不正確)

第二話

 彼が木更津空の偵察機彩雲隊に所属して、明日の命も知れない程戦局が緊迫していた頃の或日、彼は久しぶりに休をとる事が出来て家に帰った。

「おやじさん、今夜はお袋さんを借りるよ。と云ってお袋さんの布団の中にもぐり込んだことがあった。お袋さんがすごく喜んでくれたよ。」

四十代の半ば頃、加藤夫妻をセーリングに誘った。小型ヨットに五人程乗り組み、逗子から江の島に向った。島で小憩の後いざ帰ろうと云う時、「シーマンシップとは・・・…」とお達し口調の大声を出しながら、桟橋よりヨットに乗り移ろうとした彼、要領悪くまたぐ脚が開いて、あっと云う間に落水してしまった。とんだシーマンシップの模範演技に、大笑いとなった。彼が何を云いたかったのか、続く言葉は聞かず仕舞になった。

彼が逝ってから彼の遺書が発見された。奥様のお許しを得てその一部を転載します。

「小生、父母の恩愛の裡に海軍兵学校に学び、こよなき体験と、生死を問わず多くのよき友人を得たる事、小生相当の伴侶を得、「正直な一生」を送り得たる事は幸福なり。

重ねて深謝致します。皆様のご多幸を祈ります。

  

  軍人(もののふ)の数のほかなる我なれど

   小さき幸いをいかで伝えん

    平成元年九月八日 加藤 孝二

   好 子 殿

   兵学校同期生殿

 

「第六潜水艇遭難」を最後に歌っていただきたし

「一糸乱れず たぢろかず 従容として…・⊥と逝きたいが 出来るかなあ

 相い知り 相い愛し 今日に到る 子孫 なけれども まあまあの夫婦として及第点だったかナアーお互いにドツコイドッコイ乍ら 自愛1今後の幸福な余生を祈ります

トンタン さようなら

彼は願っていた通り「従容として」逝った。

 彼には文才があった。我々に、

 「戦いすんで五十年期友を偲ぶ」の歌を遺してくれた。戦死した同期生とそのご遺族に対する想いが脈搏つ歌です。会誌の七九号四一頁に掲載されているので、今一度ご覧頂き、歌って見て下さい。彼のあの笑顔が彷彿とするでしょう。

 加藤君よ 有難う。さようなら。

 

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