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平成22年5月3日 校正すみ

岩本 修君を偲んで 

山田 穰

はじめに

 平成19年8月16日1000。岩本 修君死亡。享年85歳。病名は肺炎と言う。

 通夜は8月17日1800から、告別式は、8月18日0900〜1000。共に日蓮宗により、相模典礼所沢葬祭センターにおいて、厳粛に挙行された。

 永久に流れる時の刻みに、人間の浅ましさは、何とかして、ある種の因縁を持たせてみたくなるのだが、彼、岩本が死んだのは、われらが慟哭(どうこく)の日、昭和20月15日から数えて62年と加えて1日の日であった。別にどうということは無いことであるが、浅ましい人間の一人として、ほんのちょっと気になる数字であった。

 ここで、岩本とわれらの海軍時代における分隊生活関係について若干ふれておこう。

昭和15年12月、兵学校に入校した時までは、承知する仲ではなかったが、4号生徒のときは、彼は7分隊(1部7班)、私は13分隊(1部1班)で、所属分隊は違っても同分隊に準ずる同じ部であった。ということは、“はこもの”の関係からだけでも最低日に何回かは顔を会わせる関係であった。顔を合わせれば話もかわす仲であった。

 入校時の1号生徒69期の昭和16年3月末卒業に鑑み、72期は3号生徒に昇格したが4号と同分隊のままで分隊の組換えは無かった。即ち7分隊の3、4号は総13名で、戦死者5名、終戦時生存者8名、生存者のうち4名戦後病死(岩本を含む)、現生存者は松下太郎、樋口 直(生存者中のクラスヘッド),杉田繁春,山下 誠であった。

(注:戦死、戦後病死は平成15年12月現在名簿による。氏名の横棒は岩本の葬儀式典参列者。以下同じ)

 

2号の時は42分隊,私も同分隊であった。同分隊となると、顔を合わせる機会は連日となるのは当然であり、2号という立場も加わり生徒生活を愉快に楽しんだ。帝國海軍は緒戦の勝ち(いくさ)で万歳!万歳!岩本との間も愉快な思い出のみが残っている。唯一の例外として毎年10月に全校定期的に行われる原村演習がある。42分隊は本隊転進の後援の任務につかされ、重い機銃を4人で担いで原村から吉浦までの間、平たく言えば逃げ帰る陸戦の演習が行われたが、この時だけは重い重機が肩に食い込み「死んだ方がましだ」と本当に思った。しかし、となっては、われら青春の、尊い良い思い出でもある。

 42分隊2号は、総員12名であったが、戦死者は8名、戦争を生き抜いた者は4名、戦闘機の岡本俊章(大腿骨骨折入院中)、潜水艦の名村英俊と私山田 と岩本 修であったが、今回神仏の定めにより岩本に対してエターナル・パトロールへのお召しが下り、急に寂しくなった。

 岩本は1号の時56分隊(伍長福山正通)1号総員10名、戦死5名、生存者5名、生存者のうち戦後病死は品川 弘、岩本 修、現生存者は浦本 平川 、川越重比古。

 兵学校の分隊では岩本と関係はなかったが、比較的親交のあったもの、海上自衛隊において親交があったものなどで葬儀に参列した者を氏名のみ掲示すると、東條重道夫妻(重度障害者)、門松安彦掘剣二郎若松禄郎左近允尚敏上野三郎(年度幹事)。

 クラスの大半は、葬送の式典には参加したいと、みな考えていても、よる年波は8485の今日、やれ腰が痛いの,血圧が高い,となっており、口だけは達者だと言っていた者も、この頃はその口までも駄目になってきた。そのようななかで筆者が全く感心したのは東條 である。片足を壊死のために、殆ど付け根から切り取ってしまった東條は奥様との二人三足で無ければ動きが取れない。見るに耐えない痛々しい姿でよくも葬儀に参加したと思い敬意を表する。同じ海自であっても潜水艦と艦爆。出身の違いは大きく、東條の葬儀出席のエネルギーになった理由は、と不思議に思っていたが、埼玉なにわ会は柴田と岩本と東條の3人が発起人であったと言う。

 もう一人、クラスで畑種治郎と言う男がいる。この人は八雲で岩本と一緒であったが、わがクラスの駆逐艦乗りで特型以降のスマートな朝霜クラスの航海長の席を中尉時代に占めた勇将との自評を聞いたことがあった。この人は岩本が介護施設に入院した時にはお見舞いに行ったという話を聞いたので私は今回の岩本の不幸を直接知らせた経緯があった。畑(通称「畑種」と言う。)は8月10日緊急入院して大腸の手術を行ったそうで、私が畑種の自宅に電話したときは8月16日の朝オペ終了、目下ICUで苦吟中であると聞き驚いた次第である。畑種は9月末退院した。

海軍時代,岩本はハ203の艤装員となり、艦長70期の真山大尉を助けて新造艦の立ち上がりに苦労した。20年6月25日 セニ(先任将校)。畑は駆逐艦に乗る艦が無くなり,潜校普通科学生を経てハ210のセニに20年8月11日就任、強いて言えばこの二人は八雲以来同じ畑(はたけ)で最後をまっとうしたと言うことになるか。かく言う私は戦後畑と再会したのは1回だけ、KAの関係で家庭を留守に出来ない畑は、クラス会にも出られない境遇であると言う。路上であっても判らない関係であるが大谷ほどではないが、専らホーンフレンドの関係である。

 クラスの潜水艦乗りであ号作戦に参加した唯一人の男 その名は岩本 修!?

 ここに掲げたキャッチフレーズは、極めて重要な意味を持つ。換言すれば、あ号作戦,すなわち、旧南洋委任統治領が東方、南東方、南方、西方から急激に本土へと圧迫され、帝國の生命線はマリアナ諸島にて一線を画し、絶対にサイパン、テニアン、グアムの死守に失すれば、本土を確保するは危なし。死守せよ、サイパン島。かくして、あ号作戦の意味は、往時日本海海戦と同じ帝国の興廃をかけての大作戦となった。

 ときに、昭和18年は19年へと変わり、私の記憶では、19年3月中旬のある日、私は空母龍鳳の乗組(航海士)から潜水学校普通科学生の発令があり、龍鳳で一緒であった澁谷信也と共に大竹の海軍潜水学校へ出頭、19年4月15日 第11期普通科学生を拝命した。卒業予定日は19年8月15日であった。 

 その当時、第1線の潜水艦に奉職して潜水艦戦の先頭で活躍できるのは、原則として、潜水学校普通科学生を卒業する必要があった。しかし、この「ノーマーク実戦不参加」は原則であって絶対ではなかったようである。わがクラスで、潜水学校普通科学生一番乗りは、普通科学生11期であったが、甲、乙、丙型の2千トン級の潜水艦にノーマークで乗組み、艦内配置・砲術長として乗艦していたクラス・メートがいたのであった。――例えば、@守家友義(イ12:19・6・5〜8・15・)、A岩本 修(イ38:19・5・25〜8・15)、B久米川英世(イ44:19・6・25〜8・15)、C木庭啓次(イ47:19・7・10〜8・15)。

 

(これらの人々は、11期普通科学生の卒業8・15に11期と入れ替わり、守家→木林、岩本→青木、久米川→定塚、木庭→佐藤秀一と交代、12期学生となる)

(久米川英世の欄の見方:前任艦武蔵よりイ44に転勤、潜水艦史によれば19・5・25に前任者と交代とあるが、編者において久米川に直接質したところ、武蔵艦長朝倉少将の特別の計らいによって、武蔵に乗艦のまま、あ号作戦に参加しそのままタウイタウイに帰らず呉に向い柱島着。辞令上では5・25日にイ44に着任すべきところであったが、丁度1月遅れて着任した。公式辞令では,つとに19・5・25着任すべきところ,実際の着任は19・6・25着任したものであり、イ44は5・27、マ散開線により被雷損傷、6・5呉帰着後修理中であった。久米川は、8・15 定塚11期卒業と交代し12期学生となる。)

(以上4名の各潜搭乗日は、久米川の例の如く,発令上の月日であって戦時中は、遅れることはあっても早くなることは無い。) 

 

さて、筆者は、潜校11期普通科学生の時代、岩本少尉がイ38潜にいるということを聞き(どのようにして聞いたかは記憶にないが)同艦を訪問したことがあった。イ38は呉の潜水艦桟橋、潜校は大竹にあり学生の上陸は土日に限られる。したがって、どのような条件で、私と一緒にいたクラスの友人数名が岩本と会うことが出来たのかについては既に完全に記憶はない。

 乙型潜水艦艦内を見たことも無い私たちは、大いに驚き羨望の眼で見学をさせてもらったことを覚えている。「ノーマーク実戦不参加」の不文律原則について何と無く聞き及んでいたことから、私は、岩本、守家、久米川、木庭等が戦運急を告げる当時の戦局において、

――19・5・3「あ号作戦命令が下令される」――
 この4隻の潜水艦のうちイ12とイ47は竣工間際で物理的にあ号作戦に間に合わない。イ44は19・5・27南方にて被雷、6・5呉に単独帰着修理中。結果、ノーマークの少尉が乗組み中である潜水艦で問題になるのはイ38のみである。

 注:以下、参照。日本海軍潜水艦史445頁(資料甲)および渡辺博史編「鉄の棺」(潜水艦関係部隊の記録)729頁(資料乙)。この資料甲乙2冊の「イ38」を参照して、両者において内容に違いが散見される。当人または親しい友人が生きておれば、ことの真相を聞き訂正することが出来る場合があるが、戦後62年を経ると戦死にあらざる病死によって当人や関係者がいなくなり調査は出来ない。岩本少尉が金剛からイ38に転勤になったとき、久米川少尉と同じような戦場環境であったと思うが、実際岩本が転勤の障害を突破して19・5・25に到着してイ38に着任したのであろうか。19・5・25の岩本の着任と同時に資料甲によると、平田光久中尉(71期)は、同一艦イ38の水雷長に昇任しているがこれは間違いであると断定できる。その他、岩本には関係が無いが、イ38の人事発令については重要なミスがあり、訂正には理由を添えてここに発表するには相当のスペースを費やし、また、主題とは関係が無いのでここではこれ以上手を加えないことにする。岩本は八雲から金剛に赴任が決ったが、同時赴任に和田恭三がいるので岩本のイ38への転勤についての様子について聞いてみたが、彼も記憶にないとのことであった。念の為。

 潜水艦の乗組みで、皇国の興廃に関わる超重大な作戦に、岩本が72期でただ一人、イ38で参加していたという事実を、君を偲ぶ追悼文に発表することは、これこそ筆者の本懐であると存念に及んだが故のことであり、このような私の微意は格別の香典になると思ったが故のものであった。が、しかし、神仏は仮定をお許しにならない。私が言う男児の本懐は、君にとって果たして本懐になるか?あるいは大きな不本意、迷惑になるか?古来賢人は言う。歴史にIFは許されない、と。    

 注:最高の権威を有する「日本海軍潜水艦史」を平凡に読めば、岩本は、19・5・25に イ38に転勤のため到着し平田中尉と同艦乗組み(具体的には砲術長)の役を交代した。

 これは事実であるかどうかは疑わしい。前述の通り、久米川の例でも確認できる。岩本 については夫人が海軍時代の履歴書副本を探し出し調査してくれたが、19・5・25になっており,海軍健在の時代はこれでよいとして、今回の調査では実際に乗り組んだ時期が必要である。その傍証が得られない限り19・5・25以後岩本がイ38にいたことのエビデンス(科学的根拠)にならない。またイ38が5・25以後においてあ号作戦のため呉を出撃してサイパン方面に出港して作戦に参加したか。岩本の着任問題を別にすれば,あ号作戦に参加したことは事実として認められるので、この文面をお読みになった方で、岩本のイ38着任の期日についてエビデンスとまでは行かなくても、貴意についてご所見を連絡戴ければありがたいと思う。できうれば、今後それらのエビデンスによって,この項が訂正になり、岩本が晴れてノーマークであるに関わらずあ号作戦に参加し、運砲筒による弾薬、食糧の補給、6F司令部脱出(実際は不成功)などに功績を発揮すれば―と言うところで、立派なサイテイション(情報源)となる。繰り返し言うが、功績は無くても男子の本懐である。刊行されている公文書に忠実に従えば、現在唯今においても、岩本にはその資格は十分にあるのであるが、そう言いきれないところが残念至極である。

 杏林大学付属病院と岩本

 

 岩本君は戦後海上自衛隊(以下海自という)に入った。海自では潜水艦関係を主とした業務につき、一尉から海将補まで勤め上げ、昭和51年に退職したと聞く。

 私は没交渉であったので海自時代のことは、分からないが、岩本君は、潜水艦関係といっても後方関係の仕事、例えば潜水艦基地隊司令などの要職で、呉や横須賀の勤務が長かったと聞く。彼が海自の最後の勤務として横須賀の潜水艦基地隊司令の時は、所沢の自宅に住まい、毎週月曜日の朝4時に,自家用車で自宅発,そして土曜日に帰宅していたと聞き、少なからず驚いたこともあった。何しろ遊山ではない通勤であり、一般的には誰も選択しない道であり、葬儀の席上でも彼の親戚筋の人が感心して述べていた。

 昭和51年に海自を退職し、海自の世話で杏林大学の寮の舎監的な職種の紹介があり、応諾して八王子の杏林の寄宿舎の舎監として就職したと言う。岩本が偉いと思われるのはこれからである。教育関係の誰でもが、「この人は舎監でおいておくのはもったいない」と、言われる立場になっていたと言うことを、その当時、私に教えてくれた人がいた。誰から聞いたのかは思い出せない。

 いつ、彼が杏林大学医学部付属病院の事務長に転じたかは、辞令のような文書では鮮明にならないが、大学の医学部付属病院の事務長ともなれば、相当の大組織であり、事務長の呼称は、相応の識見人徳なしでは勤まらない。また、創立時の杏林大学の名声はともかく、有名教師は、殆ど国立大学から入局し、学長に至っては東大教授・名誉教授、または斯界(しかい)学会の大ボスまで動員されるに及び、昭和5060年当時は、急速に人員・設備などが整備され、帝都の西部における大病院に成長した異色の病院であった。ここまでくると、事務局の体制整備も急速に要請されるし、往時の海軍少将にとっても引きうけた以上は、一国の国防体制の整備よりも重かつ大であったと思う。(ちょっとオーバーか?)

 私は、岩本君のキャラクターとして最高のものは、誠実・共感性・陰日向の無いことであると、長い彼との付き合いの仲から敬意を払っているものだが、彼の帰らぬエターナル・パトロールに旅立った今日、余り遠慮無く筆を進める。

 彼は、16年間に及ぶ杏林の勤めを止めてからあと長年の疲れの蓄積か、病気勝ちになり、私もその頃から病気のデパートになり天気晴朗なる毎日を過ごす訳には行かなくなった。

クラスの諸兄においても同じで、ある時名村英俊は用事があって故郷竜野にKAも一緒に行った帰路、自動車事故を起したそうである。

 何しろ自宅東京から400キロも離れたところでの事故であるので名村も相当困ったと言っていたが、CTとかMRIとかで検査の結果、現地での応急処置も終わり、東京の自宅に帰る許可が出てやっと帰宅した。もちろん、然るべき近所の病院に入院させたその後の話であつたと思うが、名村とあったある日、私は彼から交通事故受難の話を聞いた。

 東京の医者は、MRIにより脳に残った傷跡は、後遺症の心配の種にはならないとは思うが、要するに、奥さまにしても名村にしてもこのようなケースは後が心配である。近く退院するが、名の通った天下の名医に診てもらいたいと思っているということを洩らした。そこで私は、岩本に相談することを奨めた。

 その後,遠からざる時期に名村に会ったとき、名村の方から奥様の脳の傷について報告があった。

「この間、話したKAの頭の傷について岩本に話した。岩本とは本当に久しぶりに会った。岩本の医局内紹介で杏林の院長に会った。現在の杏林の付属病院長は日本脳外科医師会の会長であり、岩本が院長の直接診断をお願いしてくれたそうだ。決められた日時に院長診察室に行き直接診察をしてもらった」

 その時院長が言われた言葉を再現すると、

「名村さん。当院の岩本さんのお親しいご友人だそうですね。(以下の診察に関する結論は本題の内容に関係がないので省略するが、それは名村夫人をして名医の一言がいかに偉大な機能を発揮するものであったかと言う偉大な証明となったことだけは明らかにしておこう)」

 ここで名村が院長から聞いた最後の挨拶の中に泣かせる一言がある。この一言を貴方はどのように取るか。私は、額面どおりに取るべきであると信じる。

 最後に院長の名村に対する挨拶を記して本項を終わる。

「本学にとりまして、岩本さんはまだまだいて頂かなければならない方です。よいお友達をもたれましたな」

 岩本よ。如何なる美辞麗句の百に優る言葉でした。言う方にしても、言われる貴様の方にしても、恥ずかしくて聞いてもおれないが将に至言なりと思う。過ぎし葬儀の式場において,名村の代人として弔辞のなかでお披露目をする予定であったが失礼したので追記する。以って瞑すべし。

 このような例は私と岩本の間でもある。私自身の世話になった例は紙面の関係で掲載しないが、畑種の例を挙げて、彼が大腸ガンと大腸の(ねん)転で大手術をやり1ヶ月半の入院をした話は前掲の通りであるが、日を同じくして岩本の旅立ちの日であったと言うことは同じハ号潜水艦であの大戦を終わったことと、どのように両氏の因縁を結びつけたらよいのか、私には分からない。

 岩本の生前、電話で畑が私に言った話である。

「岩本ほど、誠実で、人の面倒をよく見てくれる奴はいない。戦争中の駆逐艦での大艦の援護作戦、戦後の映画会社における活動などで俺は身体を休める暇が無かった。医者は関西ならともかく東京では懇意なところがない。岩本君の関係している病院で良い医者を紹介してくれと頼んだらば、良い医者を紹介してくれて助かっている。本当に奴は親切な男だ。杏林大学病院も良い事務長を見つけて良かったと思う」と。

一隅を照らす

 

85歳になった私は、旧海軍関係の方々を始め、各部各方面の相当多くの方々の冠婚葬祭の行事に参列する機会があった。都内のこの種の行事でも参列させてもらえば、それなりに勉強することが多々あり、何かを得てくることが出来る。ありがたいことである。

 岩本君の時は残念であったが、16日に逝去され、17日には通夜、18日は葬儀と言うことで大変なことであるのに、更に加えてどうにもならないのは、歳相応だと言ってしまえばそれまでだが、われわれの周辺は余りにも病人が多過ぎる。私もその一人である。

 岩本の死亡通知は、16日の午後には未亡人→東条(埼玉なにわ会)→名村(潜水艦代表)を経て私、山田に来た。このルートは正規の通信網ではない非常ルートである。名村は、つんぼで耳が聞えない、私は幻覚症で併せてパーキンソンで役に立たない。そこで私は、弔辞担当に畑種を推薦した。

 結果は、畑は急な大オペで駄目であったが、この弔辞依頼を誰にするかという一部の相談がもれると、畑の声は承知していても顔を知らないものばかりで、「適任だ」と承知する様子が見えない。12期の普通科学生であった泉五郎に電話すると、彼もひどい痛風で七転八倒、それどころでないということで、どうにもならない。上野幹事長は岩本とは海軍時代縁が無く、内容貧弱で駄目だと言う。平川進も資料不足で自信なしと言う。そんな訳で幻覚症の山田が買って出たわけである。

 しかし、俺も立派な病人で、緊張すると声が出なくなる。なるようになれ、俺の取り柄は、爆雷を食らったことだけだ。それを思えば怖いものはない、と、この文章の25%分くらいの目標分量で原稿なしで話し言葉の弔辞を遣り出した。始めたのは良いが幻覚症と著しい腰痛に邪魔されて、この時ほど自虐に苛まされたことはない。

 最後は孔子から借りて、岩本の孫2人に「一隅を照らす」と言う言葉を贈ったが、わからなかったと見たので、親父さん(岩本の長男)に家に帰ったら翻訳の上良く理解させておくことを頼んで置いた。だいぶ疲れてきたので最後に「同期の桜」を独唱して終わったのであるが、一緒に合わせてくれたのは東條一人であった。東條は元気だ。奥様より長く東條と付き合ってくれた彼の右足に、私なりの意味をこっそり秘めて、挙手の例を贈った次第である。

 全体の出来は、惨憺たる出来映えで何をかいわんやである。堀剣二郎の評を記す。

「山田。ご苦労さん。始めのうちは、あのスピーチはどうなるかと思って心配していた。聞いちゃおれなかったよ。まあ、これは終わりまで続かない。途中で、きっとブツ倒れると本当に思って聞いていた。しかし、そのうちに安心してきた。最後のころになってどうやら途中でブツ倒れる心配は無くなり安心してきたと言うところだ」

「お主、よく言うわ」と普段なら頭にくるところであろうが、逆に、私は堀剣を見直していた。

 最後に「照一隅」を取り上げた所以について述べる。クラスの諸兄には解説無用であるが。

 私は、中国の古典で言うならば、「一隅を照らす」と言う箴言こそ、岩本に呈するに最適な言葉であると考えていた。彼は決してでかいことを、派手なことを好まなかった。

 私は、四隅を欲せずして敢えて一隅を与えられるのを好み、その一隅を磨けば、その輝きは三隅に及ぶというのが孔子のこの言葉の真の意味であると理解していた。この私の理解は、私の10代における中学において、始めて漢文を教わった頃からの私の誤解を含む理解であったのか、あるいは途中からその理解が変わったのか?それは分からないが、浅学()、私はただ恥じ入るのみである。彼の出身校日本中学の校長先生は漢文の大家として知られるが、先生をして「岩本君、君はとんでもない友人を持ったな」と嘆かせたか。

 今回この部分を会報に掲載しようとしたとき、確認のために「中国古典名言事典」にて「一隅を照らす」を索引してみると出ていない。そこで漢和大辞典で「一隅」をひくと

「挙一隅而示之不以三隅反則吾不復也」=「一隅を挙げて之を示すに三隅を以って反らざれば、すなわち吾(ふた)たびせざるなり」とある。これはヤフーで検索を再確認してある。想うに正式の孔子(曰く)の時の解釈であろう。

 

 孔子と論争をやらかす意志は、私には毛頭ないが、論語の解釈では孔子の独断でよしとしても私は、私の論語にあらざる解釈の方が適訳であると思っている。もし孔子が「照一隅」を追認してくれるので無ければ、私も、この項を岩本大兄に呈するのは取りやめることにしたい。なにゆえか?

それは岩本大兄の生前の全人格の否定になるからである。合掌。

    (原稿脱稿:平成1910月9日)


(なにわ会ニュース98号13頁 平成20年3月掲載)   

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