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加藤孝二君を偲ぶ

市瀬 文人

 三年前までのクラス会々場では、何時も皆に明るい声をかけながら、席につく暇も無く写真を撮ってくれた加藤君、次のクラス会には奥様の同伴を必要とし、カメラは持参されなかった。その後次第に体調が悪化し、奥様懸命の自宅介護の甲斐無く、十二年十月七日遂に未帰還となる。残念ながら実に惜しむべき友を失った。

彼は永年なにわ会の会計、会誌の編集、その他雑用を献身的に超人的にこなして来た、存在価値の大きかった、功労者である。

彼と私が特に親しくなったのは、彼の家に泊り込んで会誌の発送作業を手伝った頃で、私が名簿係を大谷兄より引き継いでからは、多忙の彼から会誌の発送を数年間引き受けた。

二人の性格の違いは却って二人をより親密にさせたと思われる。

 幽明境を異にした今、彼の人柄が偲ばれる事の二、三を、何の脈絡も無く拾って見ます。

彼から直接聞いた話は、多分なにわ会の旅行に参加するために乗った寝台車の中で、ベッドに腰掛けてちびちびやりながら、夜の更けるのも忘れて語り合った時のものである。

第1話 彼が偵察の飛行学生時代、古参の教官との対話。

 「教官、今云われた事は私達が今まで教わった事と違うようですが、間違いではありませんか。」

 「何を云うか、俺の云った事に間違いはない。若し貴様の云う事が間違っていたら、貴様をぶん撲るぞ。」

 「では私の方が正しかったら、教官はどうされますか。」

 傍に居合わせた若い先輩教官が、慌ててその場を収めてくれた。(言葉使いは不正確)

第二話

 彼が木更津空の偵察機彩雲隊に所属して、明日の命も知れない程戦局が緊迫していた頃の或日、彼は久しぶりに休をとる事が出来て家に帰った。

「おやじさん、今夜はお袋さんを借りるよ。と云ってお袋さんの布団の中にもぐり込んだことがあった。お袋さんがすごく喜んでくれたよ。」

四十代の半ば頃、加藤夫妻をセーリングに誘った。小型ヨットに五人程乗り組み、逗子から江の島に向った。島で小憩の後いざ帰ろうと云う時、「シーマンシップとは・・・…」とお達し口調の大声を出しながら、桟橋よりヨットに乗り移ろうとした彼、要領悪くまたぐ脚が開いて、あっと云う間に落水してしまった。とんだシーマンシップの模範演技に、大笑いとなった。彼が何を云いたかったのか、続く言葉は聞かず仕舞になった。

彼が逝ってから彼の遺書が発見された。奥様のお許しを得てその一部を転載します。

「小生、父母の恩愛の裡に海軍兵学校に学び、こよなき体験と、生死を問わず多くのよき友人を得たる事、小生相当の伴侶を得、「正直な一生」を送り得たる事は幸福なり。

重ねて深謝致します。皆様のご多幸を祈ります。

  

  軍人(もののふ)の数のほかなる我なれど

   小さき幸いをいかで伝えん

    平成元年九月八日 加藤 孝二

   好 子 殿

   兵学校同期生殿

 

「第六潜水艇遭難」を最後に歌っていただきたし

「一糸乱れず たぢろかず 従容として…・⊥と逝きたいが 出来るかなあ

 相い知り 相い愛し 今日に到る 子孫 なけれども まあまあの夫婦として及第点だったかナアーお互いにドツコイドッコイ乍ら 自愛1今後の幸福な余生を祈ります

トンタン さようなら

彼は願っていた通り「従容として」逝った。

 彼には文才があった。我々に、

 「戦いすんで五十年期友を偲ぶ」の歌を遺してくれた。戦死した同期生とそのご遺族に対する想いが脈搏つ歌です。会誌の七九号四一頁に掲載されているので、今一度ご覧頂き、歌って見て下さい。彼のあの笑顔が彷彿とするでしょう。

 加藤君よ 有難う。さようなら。

なにわ会ニュース84号11頁 平成13年3月

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