TOPへ     物故目次

平成22年5月5日 校正すみ

思い出 二題

(機)安藤 満 

加藤孝二、押本直正両兄と小生とはともに、41期飛行学生である。昭和18年9月、江田島の306名に、舞鶴からも20名が合流して、霞空の学生舎で起居を共にしながら、93中練(赤とんぼ)の訓練に励んだのも、つい昨日のことのように思われる。その後、専攻の機種が決まり、加藤兄は偵察に、押本兄は艦爆(操)に、そして小生は戦闘機と分かれ、実施部隊を共にしたことはない。しかし、戦後の両兄については、それぞれに次のような思い出がある。 

  

 加藤孝二兄について

  なにわ会の会合で顔を合わせると、必ずにこやかな顔で寄ってきて、戦死した小山 力兄の話をするのが常であった。小山兄とは舞鶴で、4号時代同分隊であり、厳冬期、木造の第2生徒館の廊下を、裸足で甲板洗いの苦労を共にした仲であり、飛行学生も一緒であったが、彼は専攻が艦爆(操)となり、昭和20年4月、喜界島付近で彩雲を駆っての偵察中に戦死した。加藤兄は小山兄と同じ飛行隊に属し、小山兄の壮烈な戦死の状況を、逐一会うたびに話してくれるのであった。その熱心な語り口は今も鮮明に覚えている。 

 コレスの搭乗員に、このように心こまやかに配慮して呉れた加藤兄の真情が、本当に身にしみてありがたかった。   

  

 押本直正兄について

 旧姓が安藤で、同姓のよしみというか、何となく親しみを感じてはいたが、永い間不思議と話し合った覚えもなかった。  

  小生、昭和53年に会社勤めを定年退職後、以前からみせられていた奥日光の戦場ヶ原を、毎月のように歩き回っていたが、たしか昭和59年の春頃と思われるが、中禅寺湖畔のバス停で帰りのバスを待っていたところ、丁度観光シーズンのことでもあり、大勢の観光客でごった返していたが、ふと見ると、老齢のご婦人を伴った押本兄がいるではないか。混雑の中でまともな話も出来ない状況の中で、押本兄の曰く「なにわ会への投稿ありがとう、貴様の希望にそって次の号にのせるから・・・・・・」列に押されて後は言葉にならなかったが、それは奇しくも加藤兄から投稿を勧められていた慰霊巡拝の記事のことだと直感し、こんな混雑の中でも咄嗟(とっさ)の時にそのような言葉が出る押本兄に感心させられた。  

 同伴されていたのは、おそらく母上ではなかったのか、確かめる間もなく別れてしまったが、孝養を尽くされる姿にも感動を覚えたものだ。    

 両兄に対する想い出は、このように僅かなものに過ぎないが、その転瞬の間に真実味溢れる友情が感得される。   

 いま静かな時の流れの中に、浮かんでは消える言葉がある。  

 「散る桜、残る桜も散る桜」

(なにわ会ニュース86号32頁 平成13年3月掲載)

TOPへ     物故目次