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平成22年5月6日 校正すみ

小島末喜君を偲ぶ

若松 禄郎

 平成6年1月17日 晴後曇 午後風強し、豊廣兄から「小島末喜君が1月14日、九州宮崎で、急性肺炎のため死亡した。」との訃報が入り、次のように直感した。元旦に国見岳山頂から遥拝を済ませ、体調を崩したか?南国とは言え1700米を越える霊場で、ご祭祀を祭り、国家泰平の祈願並びに部下・戦死者の英霊の祈念を続けることは、並大抵のことではない。

しかし、後日知ったことであるが、彼が発熱したのは、昨年の12月27日、里宮のある日向市美々津の地であった。早速、延岡市の県立病院に移されたが、約2週間の治療の甲斐なく、1月14日息を引き取った。年末クラス会で顔を合わせ、日頃気づいた資料を何時もと変わりなく寄越してくれ、元気だっただけに信じられない思いであった。

彼は生前25年程の間に、宮崎の地に、奥宮・中宮・下宮・皇宮・昭和宮の五宮と東京分座の社を建立している。天孫降臨の地が国見岳であるとの確信のもと「神命を果たすべく」奉仕してきたのである。会社経営と平行して、信心に異常なまでに心魂を傾けてきたことの始まりは、豊廣の弔辞にもあるように、第13震洋特攻隊長として出撃、乗船した輸送船アトラス丸がバシー海峡で敵潜の魚雷攻撃を受けて沈没した。その件に詳しく説明されている。

部下を失い、兵器一切を失い、運良く一部の者が護衛艦に救助され、マニラに到着した。組織だった震洋特攻の任務が、輸送途次の段階で、挫折した無念さは責任感の強い小島は悩み抜いたことだろう。

戦局がレイテ戦を境に、我が勢力大いに傾き、同じく救助され運命を共にした部下に報いる術もなく、次なる第40震洋隊の新編成のやむなきに至った。その心情を察するに毎日が後ろ髪をひかれる悔いの連続であったろう。彼が不名誉な深い負い傷を余り話したことは無いように思う。若くとも部隊の長として、相談相手があるわけがなし、自ら決断して行動を取らねばならない。

斯くして、戦局は追い詰められ、台湾、沖縄、南九州の三地点に絞られ、第40震洋隊は昭和20年2月、喜界ケ島に配備された。

喜界ケ島は本土・沖縄の中間に位置し、重要な地点であった。本土決戦に備え、毎夜、訓練に励み、激しい空襲のなか、隊員達は出撃だけを考えていたが、その命令がないまま8月15日を迎えた。寧ろ、それからの苦衷は察するに余りあるものがある。唯一の理解者は豊廣兄ではないかと思う。夫々の第一線で、格別の苦悩があった。併しまた、彼は生き残ったのである。

敵と立派に戦って戦死することは、尊いことである。闘わずして、自殺行為を取ることは、それに値するものでなくてはならない。彼は「生かされて、生かされて、神命を果たす」ため戦死者の霊を陰ながら供養することにより、煩悩から逃れる術として、又生き甲斐として、生涯、みずから信ずる道を歩んで、果てたのである。決して、卑怯な方法ではなかった。徹底して自分の道を歩んだのではないかと思う。

故小島末善君(旧姓安藤)との付き合いは、多分矢矧が佐世保岸壁で艤装中の頃と思うが、偶々ドック入りした折、彼と工廠内で会い、何故か水交社で一夜を過ごしたことがある。彼は大変真面目な考え方をする男だった。これを機に話すようになった。とびとびになるが、その後、前記したマニラの話も聞いた。彼は捕虜以上の不名誉に思っているのだから、彼の負い目を気遣って、当方から突っ込んだ聞き方は出来なかった。又初めて、国見岳に社(奥宮)を建立したことについて、意見を求められたことがある。時々、資料をよこすが、「偉そうにとりたてるが、本質は空虚なり」と意外に率直なところがあった。

2年程前の夏、珍しく電話をしてきたことがある。いきなり「仲良くしような!」「改めてなんだ」「同じ震洋じゃないか」のやり取りであった。よくよく話せば彼にも悩みがある。特に孤独であったようだ。彼は信仰深いが故に、端から奇異に受け取られることは、自ら認めているが、そこから逸脱することほど最大の罪悪はないと信じてきた。何時も責め立てられながら、純粋に生涯を終えた。かたや気の毒に思えるのだが、彼は殉死者の精神をもって、あの世まで仕え奉るのが使命であり、嬉しい毎日として、そのとおり実行した人生であった。我々には偉大なるがゆえに解しえない点もあったが、彼が周辺に迷惑をかけるようなことなく、思い通りに行動したことは立派であった。謹んでご冥福を祈ると共に、心安らかに国見の山を護っていただきたい。

(なにわ会ニュース71号4頁 平成6年9月掲載)

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