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平成22年5月6日 校正すみ

国生 健君を悼む

左近允尚敏

4月23日、国生君が急逝した。今年になってまた体調を崩したことは耳にしていたが、あまりにも突然の訃報だった。

君とは一号のとき同じ7分隊だった。無口な方でエピソードらしいものは思い出せない。三号をシメルといったこともなかったように思う。私は前後1年ほど、復員輸送に従事してから数年を鹿児島で過ごしたが、そこには君や、阿久根、浦本、宝納、松元君らがいてときどき集った。君は母堂とたしか伊教という町に住んでいて、クラスが連れ出ってお邪魔した記憶がある。こうしたことがあったので、その後いつの間にか君は鹿児島出身だと思っていたが、亡くなってから思いちがいだったことが分かった。広島一中だったことは無論当時は知っていたはずである。

その後君は捕鯨母船に乗り組み、あとの連中は自衛隊に入った。やがて君が船を下りて会などでたまに会うようになった。自分から話しかける方ではなく、もっぱら聞き役で陽気ではないが、と言って陰気でもなかった。

朝風や雪風のようなコプネで苦労したはずだが、戦争中の話はあまり聞かせてもらわなかったように思う。

君が再び・・・三度と言うべきか・・・船に乗ったと聞いたのは数年前である。一昨年の8月、長男、伸君の結婚披露宴にクラス数人とともに招かれた。披露宴の締めくくりは、新郎の父のあいさつである。大勢の客を前にしてのあいさつは彼には苦手と思えたから、加藤孝二君と「おい、国生大丈夫かなあ」「うーん、ちょっと心配だな」と気をもんだのだが、どうして、どうして、立派なものだった。

君は、その後は船には乗らず、やがて病を得て鎌倉の高橋ドクターの病院に入り、退院後は通院して治療を受けていた。

昨年6月のある夕、珍しく君から電話があった。三号の音頭とりで翌月、初めてやろうとしていた分隊会についてだった。「出席するか?」「するよ」「じゃあ、おれも行くよ」というやりとりがあって、当日は伊中と三人で参加した。10人ほどの集りだったが、君にしてはよく話し、楽しそうで健康も回復しているようにみえた。だが、それが君と会った最後になった。

1年がすぎて去る7月1日、第2回の分隊会があったが、私はただ一人の一号として君の訃報を伝えることになってしまったのである。

7分隊の一号10名のうち、菊池(洋)、鈴木(敏)、多田、千田、深見、の5君が戦死・戦後、星野(政)、岡本「時」の両君が亡くなり、今また国生君が鬼籍に入って、伊中君と私だけになってしまった。

君はクラス会以外の旧海軍の会合にもよく出席していたという。最後までクラスと海軍に愛情をいだき続けた一人だったのだ。いい男だった、もっといろいろ話をすればよかったな、という思いが残る。

謹んでご冥福をお祈りします。

なお、クラスの会葬者はつぎのとおりであった。

 通夜 4月25日

渋谷信也、加藤孝二、左近允尚敏、高崎慎哉、飯野伴七、眞鍋正人、松元金一、郡 重夫、宝納徳一、高杉敏夫、安藤昌彦、浦本 生、松山 実、大堀陽一、市瀬文人

 告別式 26日

後藤 脩、小松崎正道、水野行夫、後藤英一郎、左近允尚敏、押本直正、定塚 脩、足立喜次、新庄浩、伊中四郎、大岡要四郎、三笠清治、宮田 實、松下太郎、樋口 直、足立英夫、泉 五郎、澤本倫生、高橋猛典、名村英俊、本山和男、白根行男、向井寿三郎、飯田嘉郎

 

なにわ会を代表して伊中がつぎの弔辞を読んだ。

   

謹んで故国生健君の霊に申し上げます。

君は広島県立第一中学校に学んだ後、昭和15年12月、全国から選抜された625名と共に第72期生として海軍兵学校に入校されました。日本が太平洋戦争に突入したのはその1年後であります。

君は昭和18年9月海軍兵学校を卒業・駆逐船朝風、次いで駆逐船雪風の乗組み、青年士官として苛烈な第一線において活躍した後、潜水学校学生を経て特攻兵器、海竜の部隊に配属され、敵艦隊迎撃々破を目指して心を砕かれました。

昭和20年8月、日本はついに敗戦の己むなきに至りましたが、この間において国に殉じた期友は335名の多きを数えたのであります。

戦後は、君を含め第二の人生を開拓したのでありますが、まもなく第72期生、海軍機関学校第53期生、海軍経理学校第33期生をもって、なにわ会が結成されました。以来君は、なにわ会の諸会合、すなわち6月の靖国神社における慰霊祭、12月の忘年会、1月の湘南地区の新年会など、その他海軍の諸会合によく出席されました。君は温厚にして誠実、寡黙ではありましたが話しかければ温顔をもって答え、周囲に温い雰囲気をかもし出すのが常でありました。

一昨年御長男の結婚式の際の君の嬉しそうな顔が優しく想起されます。その後やや体調を崩されましたが、昨年7月における戦後初めての第7分隊の会合には喜んで出席、歓談されたのでありました。

今、突然君の訃報に接し痛惜の極みであります。御遺族の御悲嘆は察するに余りますが、なにわ会一同は今後できるだけお力添えを致すことを君に誓います。

国生君、どうぞ安らかにお守り下さい。

昭和63年4月26日

なにわ会代表 伊中 四郎

(なにわ会ニュース59号25頁 平成63年9月掲載)

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