TOPへ     物故目次

平成22年5月6日 校正すみ

畏友 古前君

椎野  廣 

 転々としたサラリーマン生活が終って、やっと神戸に落ちついたので、年賀状にも、近くに来たので今年は会えますね、等と書いて出したのに、古前の訃報に接した時は飛び上がった。仕舞ったと悔まれた。定年の挨拶状に、戦没したクラスメートの鎮魂と生き残った者への友情を温め直そうと誓って、まるでお遍路さんの巡礼宣言みたいな事を書いたくせにと遅鈍な私が嫌になった。

古前と私は二号時代、候補生の乗艦実習の伊勢と一緒だった。トラックから呉に帰投して上陸したある日、「俺んちに来いや」と行ったのが比治山の古前の家だった。今でも手許にあるが、その時お父さんに撮ってもらった写真が二葉ある。少し黄なびてはいるが、まぶしいばかりに凛々しい候補生2人が写っている。写場の窓の真下は京橋川が流れていた。

男が顔の話をするのは不本意だが、古前の顔貌は獅々面だった。私のような狸面とちがって堂々たる獅々面だった。性格も私のように浮躁で浅薄とは対角線上の深恩で重厚であった。畏友古前君と私が(おのの)くのもここにある。

獅々面といっても、()えたり(おど)したり、大言を壮語する獅々ではない。ましてやヨメさんに獲物をとらせて真先に飽食して、徳川の将軍のように淫楽にふけって昼寝ばかりする怠惰な雄獅々ではない。夫や子供が喰い終ってから残りを喰い、グータラな夫に替って外敵から子供を守る雌獅々だ。そんなイメージの古前なのである。

 

三号を鍛えるのに、一号時代、私や藏元が、やれ櫂を流したの、馳足で遅れたの、たたんだ毛布の線がまがっているのとかで殴った粗猛な鍛え方ではない。俺のやり方をよく見ておれと無言で模範を示す。あえて殴るにしても「ガダルがおちたというのに温習室で居眠りする者がおる〃 勉強もせずにアメリカに勝てるか〃」といった具合だ。私や藏元のラムネかドリンク剤のような軽いフック性の鉄拳とはちがって時たま打ち込まれるボディブローは三号にはズシンとくるものであった。

昭和40年頃、会社の支店勤務で3年程広島に住んだ。私の歓迎会を兼ねてクラスメート4人でクラス会をやった時、小跡だったか日野原だったか忘れたが、広島人は足を引っ張るから気をつけろと忠告してくれた。それがよく理解出来ず古前の顔を伺うと黙って領くのである。私の性格を嫌というほど知っているからだろう。直言、直行、防備の下手な私を危ぶんだのであろう。(にも拘らず私はソレミンサイヤ、アレダケ注意シタンニーと言われる程足を引っ張られ(ほぞ)()んだ)。

そしてこんな話をした。後が山で前が海、平野はない広島人は移民に出た。和歌山もはば同条件。然しツレションというのは和歌山の話で広島人はツレションしない。金を稼いで故郷に帰っても和歌山はアメリカ村を作って共同で密柑をやる。広島人はえっと稼いで宮島の赤い鳥居が見える丘に城を構える。白い垣根の内に松を植え、鯉を泳がせて安居する。棟の高さや鯉の色合いで競い合う。抜き出る者の足は引っ張る。だから小物ばかりで大物は出ない。総理大臣も出ない、と言う。然し池田勇人が出たじゃないかと反論するとあれは安芸人じゃない、酒屋の暴れん坊で蹴落す力もある、吉田茂という強力バックがあったから例外だと言う。

 いささか話が外れてしまったが、私は古前の本業の仕事振りは全く知らない。物的にも心的にも軽薄短小の現世は彼にそぐわしいものだっただろうかと想像する。ファインダーから覗いた40年間の世相は彼の心にどう映ったであろうか? どう映っても彼は黙々と先頭に立って働いただろうと思う。肺ガンになったことにも気付かないで最後の最後まで飛び回ったにちがいない。息子さんや30数人の従業員の方々には彼の垂範が受継がれることだろう。仏前の美事な写真の温顔には20年振りの深さを感じた。

私が住んでいた太田川のほとりの家族寮の屋上で夫婦揃ってのクラス会をやったことがある。夕凪のさびしい夏だったのでビヤパーティ式で、寮生二人にスチィールギターとウクレレで伴奏させた。星空の下でのパーティは楽しかった。その頃、「骨まで愛して」と「星影のワルツ」が大流行だった。その夜が古前との別れのワルツともなってしまった。

古前は昇天して星となった。獅々座に加わったかどうかは知らない。広島あたりか、遠い西のみ空にひっそり輝く光だ、あれが古前だろう。

(なにわ会ニュース54号25頁 昭和61年3月掲載) 

TOPへ     物故目次