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平成22年5月6日 校正すみ

近藤 裕君への弔辞

村山  隆

  近藤裕君、4月25日、年度幹事安藤君から君の死亡連絡が届いた。

君は、ここ数年休調を崩しており、そのうちお見舞いに伺おうと思いながら行きそびれ、気に掛かっていたので、鳴呼申し訳ないことをした、君の肉声を聞けずじまいになってしまったと心残りで、悔やまれてならない。

クラスの近況を把握しょうとの試みから、年の初めにクラス全員から近況報告を貰うことにしている。

平成5年1月22日付、君の便りは「体重39s、血圧  160〜170、平成4年10月末、心筋梗塞にて北里大学病院救急救命センターに入院し、病院にて越年、1月20日退院してきました。3ヶ月の病院暮らしで大打撃を受けました」と。

翌6年1月19日付のものは、11月6日より心不全で入院致し、今なお、ICUに入っております。やっと今日(19日)から少しよくなりつつ御座いますので今後ともよろしくお願い致します。私はお陰様でなんとか日々を送っております」と。病床からの丁重な便りを貰い、2月23日退院してきた。

今年はいつもの便りが届かず、律儀な君が便りを出し忘れることもあるまいと、気になって2月4日自宅に電話を入れたところ、奥様から「1月7日に心不全で救急車によりいつもの病院に緊急入院しましたが、病状が落ち着いてきているので近々退院する予定です」とのご返事を頂いた。

そのうち退院して元気な君の声が聞けるだろうと期待していた矢先の悲報である。

クラス名簿に、また、悲しい赤線を入れなければならないことになってしまった。

去年は、機関科3名、兵科5名計8名が鬼籍に入り、遣る瀬ない思いをし、今年こそは1人も欠けることなく元気で1年を過ごして欲しいと念じていただけに、殊の外悲しく胸が詰まる。

海軍機関学校時代の君は、小兵、少々不器用な方であり、運動は必ずしも得意ではなかったように思う。君は、その弱点を補うために、どんなに苦しいときでも必死に気を抜くことなく、訓練に打ち込み、課業が終る頃には人一倍玉の汗をかき、疲労困憊の態で傍目にも気の毒なくらいであった。しかし、教室における受講振りは、涼風を頬にうけるように我が意を得たりと颯爽としたもので、流石に、東京府立第一中学校出身の俊秀であると、羨ましく、頼もしい限りでした。 

卒業後、君は航空機の整備に、私は水上艦艇にと袂を分ち、君と顔を合わせることはなかったが、切れ味鋭い剃刀のような頭脳の持ち主である君は、俊敏、適確に航空機の整備業務を完遂し、上官や部下の信任はさぞかし厚かったことと確信する。

辛くも生命をながらえ帰郷した後は、荒廃した国土の再建に、海軍時代に培われた不撓不屈の精神力をもって荒波に立ち向かい、君の得意とするエンジニヤの分野に、持ち前の明噺な頭脳を駆使し、会社の枢要な地位を確保し、この国がこのような大国と呼ばれるその一翼に、君は、いささか貢献したと自負してもよいであろう。

卒業後、君と会う機会に恵まれず、君と杯を交わしたのは戦後数回程度と少ない。君と交友を温めた最後は、確か17年前の昭和53年秋頃と思う。葉山御用邸の近くにある会社の寮で、クラス会を開いたときである。あの時、君は、生徒時代と余り変わっておらず、やや小太り気味で、大人しく、静かに盃を傾けていた秀才の君の姿を思い出す。

翌日は、アウトドアのゴルフ組とインドア組に分かれ、君はインドア組で寮に残った。私はゴルフ組であったので君のインドアの腕前はどの程度のものか知らずじまいであるが、頭のいい君のことだ、並み居る悪童どもをものの見事になぎ倒したことと想像する。得意満面な君の笑顔が彷彿とする。

君にかける久しぶりの言葉が、今日の最後のお別れの言葉となってしまうとは、無情というはかない。

近藤君、やすらかに眠って下さい。

遥か天上から残されたご夫人とお子様達の幸福を見守って下さい。

ご冥福をお祈りします。   合掌 

(なにわ会ニュース73号5頁 平成7年9月掲載)

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