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「任ちやん」逝去

生徒にとつて兵学校枚長は雲の上の人だ
                     加藤 孝二

 

 草鹿 雲上人はよく下界に降りて来られた。われわれ俗人の周囲を何時の間にか次元の違う精神誠意の世界に変えてしまわれた。その想い出の断片を記してご冥福を祈らせて頂く。

◎ 「ウーン 人にはそれぞれやり方があるんだが、俺はだな、校長発令を受けた時は三艦隊の参謀長しとってナ、「エライコツチヤと思ったよ。クラスの奴はナ『草鹿は兵学校に行儀見習いに行くそうだ』と言った。それから考えてナ、ヨーシ 俺は兵学枚へ行って生徒と一緒に勉強してやる、と決心したんだ。校長は単身赴任の儘だった。

◎ 樋口も中々いいとこあるよ。俺が酔っばらって将校集会所の二階から小便しとるのを週番生徒で双眼鏡で屋上から見とったらしいんじゃ、しかし校長の姿勢を誤解する生徒が出るのを考えて黙っていたそうな。「ハハァーン」 「ハハァーン」というのはご機嫌の良い時に出る草鹿任一式終止符である。

◎ 大好物は芋、鎌倉の街をお伴していたら「オイ一寸待ってくれ」というなり小走りされた。何事ならんと注目すれば焼き芋屋の車の前に立たれている。「これが旨いんじゃ」と三角形の新開袋に盛られた焼芋を、下駄ばき小倉の袴着用の緋の着物の懐にねじ込みながらさも嬉しそうにいわれた。お顔の皺をとれば明治の書生、「任ちゃん」の姿があった。

 ◎ 戦後死んだ中田の父君は草鹿さんと同期で親交があったらしいが早く他界された。中田の兵学校入校の時の保証人は草鹿さんだった。中田が両手負傷して箸もとれず、敗戦後物心両面に不遇であった折、「どうしとるかね」と草鹿さんは例の調子で中田の家を訪ねられた。伺えば草鹿さんが復員された直後のことであった。「俺はびっくり驚天した。本当にありがたかったよ」中田が一杯飲んでその話をする時は鼻をつまらせていた。交通事故死した中田の葬式の時、その話を草鹿さんに申し上げたら「あれの親爺は酒呑みじやった」とポツンといわれた。

 ◎ 飯沢が2711月「君子は貌変する」とせりふをはいて浅間温泉で結婿式をやった折、恐れながらとご出席をお願いしたら「行くよ」と快諾。「校長閣下が行かれるのに副官が随行しない法はない、俺達も行く」と樋口と小生が招かれざる副官として志願?

披露宴の後、部屋で行火布団に寝ながら扶桑艦長時代の話等承った。3人で安曇節か軍歌か合唱しているうちに二人共寝てしまった。翌朝、「何だ 君達は、どうも静かだと思ったら俺に子守唄を歌わせて寝とるじゃないか、ハハァーン」親が子の寝相をみるような顔をされた。

 ◎ 草鹿校長はどちらかといえば話下手の方である。おまけに晩年は話し方がまどろっこしい。つかまると話が長くなる。「任ちゃんにつかまってなあ」という手合が多かったが、みな草鹿さんには無条件降伏していたようだ。お話をじっくり伺うとお人柄がにじんでくるようなものばかりである。

 「大山元帥は日露の戦の折、児玉参謀長に全部任せっきりだった、将に将たる者はあれでなくてはの大度量といわれるが、あれは大山元帥が児玉大将の並々ならぬ力量を見抜いておられたからこそ任せきっておられたのであって、これが肝心のことだ。それを後世の人が猿真似してナーンも知んで部下に任せっばなし、責任さえとればよい、なんていうの

は間違いだ。またそれを太っ腹等という手合いも違っとる。これが日本をあやまらせた原因の要素であると思う。俺は思った通りやる。それでこそ本当の責任がとれるものだと思う。」

    ◎    ◎    ◎

「大したことはないんだが、暫くここ(佐藤病院外来待合室、高橋担当)へ来んと先生のご気嫌が悪いんでノウー」同じ待合室での吉田修との会話である。教え子に体を預けているという、信頼感と感謝と嬉しさを表現されている。正月元旦の午後、近所(歩いて3分位)の高橋の家で一杯やり、夕刻主治医兼弟子に家まで送られるのを毎年の例とされた。

 ◎ 鏡が比島の戦犯生活から横浜港に帰って来た時、草鹿さんも来浜された。帰りにクラスと共にブラブラ歩いている時、つと走り出されて一台の事に丁寧に挨拶されていた。その様は礼節の手本のような態度であった。われわれは驚いた。何しろわれわれは海軍では長老連は知らず、われわれの知っている範囲では草鹿校長が兵隊の位では一番俸いと思っている輩である。山梨大将であると後で伺ったが、任ちゃんはわれわれには極めて気さくに接せられたが、先輩とか老帥に対する態度は礼節が全身から溢れていた。草鹿さんがああされるんだから俺はどうしたらよいかと思ったくらいである。

 ◎ 横浜に「みなと会」というネービーの懇親会がある。昭和22年の発足以来ずっと、会長をお願いしていた。勿論草鹿さんのことだから、会合には必ず出席され、ハイキングは勿論、故粟星君の肝入りで海水浴をした時若いわれわれと一緒にどこまでも泳いで来られる、速力が違うから遅れる、心配して側について泳いだことがある。

 43年頃だろうか「会長をやめようかと思うが、どうか」 「何でですか」とおききしたら「俺が敬服しとった頭のきれる先輩がおられたが、年をとられたら同じ話バーカシして閉口したもんじゃ。ウーンあの方でさえそうなのだから、俺はそうならんうちにと思うんだ」 「そうなられたら遠慮なく申し上げますからそれまでお願いします」 「そうか、その時には早目にいってくれよ」といわれてその後二度と会長辞任の話はいわれなかった。

 ただ今年の6月の期会の後、余程喜ばれたらしく、「俺の知ってる所へ案内する」と樋口と池田武邦が誘われて行った柳橋レスが休日、何だかんだで近くの富士の家へ上り込んで後、一寸気分が悪くなられたとのこと、みなと会の会合でも一昨年そのようなことが

あったので、長時間、また夜間の外出についてドクター.ストップをかけて貰うよう高橋に頼んだばかりであった。

 草鹿さんは入院直後まだ意識のしっかりしているとき、安静を要するのに大小便は便所でするといって聞かなかったそうだ。心配し

て後をついて行く奥さんを肘で払ったらしい。高橋が「将校集会所の二階から小便された校長がペットでできないことはないでしょ

う」と申し上げると「そうだったなあ−」と笑われたそうだ。

 ◎ われわれが直接薫陶を受けたのは戦時よりも戦後の方が長く、また機会も多かったが.草鹿訓示そのままの姿勢で終始され、雲上人となられた。亡くなられてから段々と寂しさが増して来る。海軍の気骨あるアドミラルがまた一人亡くなられた。

 あの世でまた「任ちゃん」振りを発揮されることだろう。

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