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平成22年5月15日 校正すみ

松元 金一君への弔辞

浦本  

謹んで松元 金一君の御霊に申しあげます。

靖国の御社で、さきの戦に散華した期友の慰霊祭の席で、君の病篤きを聞き、終夜案じていましたが、翌7日早朝、遂にお別れとなってしまいました。

4月半ばに、故郷鹿児島のかつおみそを持って君の病床を訪れたとき、君は奥様に「俺が退院するまで口をあけないでおけよ」と言いましたね。しかし、その日を迎えることなく往ってしまった君を、御遺族はもとより期友一同残念でたまりません。

君は西郷南洲終焉の城山の麓に生れ育ち、鹿児島県立工業学校から難関を突破して海軍兵学校第72期生となり、卒業後、戦艦大和等に乗組み海上作戦参加を経てトラック島警備隊砲台長として終戦を迎えました。

戦後は復員輸送、瀬戸内海の米軍敷設機雷の処分等に従事の後、海上自衛隊に進み、主として掃海業務、教官、艦長、司令等として活躍しました。君は剣道5段、銃剣術5段の腕前であり、謡曲・尺八をたしなみ、謹厳実直の姿は薩摩隼人そのものでした。部下の人望も厚く、期友からも松金(マッキン)の愛称で親しまれました。

君は抜群の努力家であり、工業学校から異例の海軍兵学校合格、自衛隊退職後の中小企業診断士、その他の資格取得、また不幸にして61年、脳梗塞にたおれた後の猛烈なリハビリ等、全く頭が下がるものがあります。

自衛隊在職中も掃海技術の研究改善に努め、その発展に顕著な功績を残しました。先般のペルシャ湾派遣の掃海部隊が、世界に誇る掃海技術を発揮して感謝されたのも、君たちの努力が実ったものと思います。

また、トラック方面戦友会理事長として遺骨収集、同方面戦記の編集にも力を注ぎました。

生前の君の努力と業績を称えてお別れいたします。

期友よ、いずれが先に往こうとも、また楽しく相集い、ともに歌おう同期の桜。松元君よ、安らかにお眠り下さい。

海軍兵学校第72期 浦本 

(なにわ会ニュース69号10頁 平成5年9月掲載)

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