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平成22年5月15日 校正すみ

三 笠 清 治 兄 の葬 儀 に 参 列 し て

椎原 国康

 平成17年11月10日 18時30分、秦野の病院で三笠が永眠した。<BR>

 ここ数年、多臓器不全のため再三入退院を繰り返した上、在宅時には介護支援を受けていたが、肺炎を併発したのが最後になった由だ。

 葬儀は、小田原市小竹の日蓮宗久成寺で行われた。この寺は、生前三笠夫妻が度々訪れ、住職とも面識が有った寺である。

 13日午後6時から通夜が行われ、中井兄と参列した。終戦時大浦の蛟龍基地で一緒だった足立英夫兄が遠路参列してくれたのは何よりであった。 そして、彼を三笠夫人に紹介した。

 翌日の14日午前10時半から葬儀が行われ、本年度幹事の若松兄の他、樋口、幸田、上野、矢田、松下の諸兄の参会があった。クラスも五体不満足の状態にも拘らず、故人のために律儀に参集してくれ、本当に有り難いことだ。心より感謝申し上げたい。

 三笠兄との交流は、小生が昭和41年、二宮町百合ヶ丘団地に入居してからおよそ10年後、隣接する小田原市小竹に橘団地が造成され、彼が戸塚より転居してきてからである。それまでは全く接点が無かったが、偶然にも近所に住まいを構えることになった。

 彼は折に触れ我が家を訪れ、歓談して帰っていった。初めの頃は専らウイスキーを好んで飲み、小生は「酒が強い奴だ」という印象を持っていたが、高橋猛典兄に肝臓が悪いと宣告されて以来、お茶を飲むだけの淋しい歓談になった。しかし、甘いものも好み、よく菓子も食っていた。ある時は「肝臓の養生法」というラジオ番組の録音をわざわざ持って来てくれた。当時はお互いの関心事がなかなか一致せず、彼が熱く語り、小生がそれを聞くという形になり、話が盛り上がることはあまり無かったが、それも今となっては懐かしい思い出である。

 小生は65歳まで船に乗っており、不在のことが多かった。その間、彼はクラス関係の諸行事に参加し、小生のためにその行事の報告を我が家までしに来てくれていた。しかしながら、当方の家庭内の訓育が行き届いておらず、家内はその報告を十分に理解できなかったようである。今となっては、謝罪することもできないが、本当に故人には申し訳ないことであった。 縁とは不思議なもので、クラスを代表して火葬場まで行き骨を拾った。帰宅は午後4時頃であったが、両日とも降雨が無かったのは幸いだった。

 故人の一人娘の婿殿が、拙宅のすぐ近くに現在二階建ての住宅を建設中である。将来は二世帯で同居しようと計画していたと聞く。その夢がかなう前に亡くなったことは、とても残念であった。

  享年83歳 戒名 清閑院信徳日治信士

追伸

 弔電を頂いた中で、小西、原田両兄の正確な読み方をクラスも知らなかったので通称で失礼した。深謝。<BR>

(編集部 注)<BR>

 平成10年度名簿には、難しい読み方の名前にはフリガナがついている。

(なにわ会ニュース94号10頁 平成18年3月掲載)

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