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三好文彦君追悼

泉  五郎 

 奥方から三好君の容態が余り芳しくないとの知らせがあつたのは78日の昼前である。お互い年齢のことを考えると何があっても可笑しくない年頃である。

 然し今までもちょくちょくご本人とは電話でおしゃべりしていただけに、覚悟はしていても矢張りこんな便りは嬉しくない。

 

 嬉しくないのは自分自身も五十歩百歩、このところ一日の三分の二は概ね寝ている有様で、此の梅雨時は特に持病のリュウマチが悩みの種である。

 尤もこちらは何とか減らず口だけは叩いているが、そろそろお手上げが近いことは間違いない。クラスの訃報も益々増える一方ではあるが、それも年齢を考えれば当然のこと。

 

 とは云うものの特に親しかつた友の訃報は誠に嬉しくない。 考えて見れば三好君とは潜校以来の交友で、潜校学生時代の思い出は特に懐かしい。休日には大竹潜水学校のから遥々呉まで遠征したものである。休日には大竹から呉まで大型の連絡艇が用意されたが、都合で出ないときには宮島から広島経由で呉まで満員列車で往復した。

在校中は堅物小心の元一号の指導官付には目の仇されたが、呉のレスでは大いに「芋を掘って」鬱憤晴らしをしたことなど、今更当時のご乱行振りを思い出すと懐かしいやら恥ずかしいやら。

 もっとも三好君は当時から悠揚迫らず、流石教育者の家庭に育っただけあって品行方正、しかも我々と違って文人墨客、大人の風格があつた。

  ところで元々私は兵庫県三田の出身であつたが、終戦後早々と東京・千葉へと居を移した。逆に三好君は九州朝日放送に入社、そしてある時期関西勤務で尼崎に居住していた。

当時はゴルフブームの真最中で私なども関西まで遠征、私の兄なども一緒にゴルフのお供をしたが三好君のゴルフは誠に大人君子の風格があつた。

 

 そのうちゴルフの他にもクラスの旅行会も始まった。昭和63年秋クラスの大勢が奥方同伴で参加した九州旅行は、三好君ご夫婦の素晴らしい企画に誰もが楽しい思い出となったに違いない。

なにわ会ニュース60号には三好、山本奮両幹事名で旅行記も掲載されているが、私にとって本当に思い出深い旅行になつた。

実は小生海軍に入りながら、現役時代には佐世保に入港したことがなかつた。ところが最後の乗艦伊369潜とその前の乗艦呂59潜は共に、終戦後米軍の命令で佐世保に回航、その両艦が同じ桟橋に並んで繋留されている写真が最近刊行された「写真集・日本の軍艦」に掲載されている。 そしてその後佐世保沖で撃沈処分された。懐かしいというより情けない気もするがその話はさておいて、三好君のお陰で由緒ある昔の海軍料亭「山水楼」にも宿泊することが出来た。その他中学時代の修学旅行で訪れた霧の雲仙岳の風景など思い出は尽きない。然し今、改めて当時の写真を引っ張り出してみると余りにも幽冥境を異にした友の多いことに愕然とする。「人生七十古来稀なり」とう言葉は既に死語同然とは言いながら、流石に米寿ともなると矍鑠たる「同期の桜」は数少ない。

  お元気そうなのは奥方ばかりである。どうも男は空威張りばかりで生物としては女が主役のようである。他人様のことを言えた義理ではないが、三好君も良妻賢母の見本のような好伴侶にめぐまれ、悠々自適幸福な人生の後半生であつたことに間違いない。然しこれで結構々々! 三好君も同感に違いない。

  ところで甚だ私事にわたるが、なんといつても三好君とのご縁は私の長男がキリンシーグラムに入社、福岡に勤務していたころ、三好君ご夫妻のお世話で結婚話が纏まったことです。お陰でその後格別のお付き合いをさせて頂くこととなった。三好君ご夫妻と両家の親たち等総勢7名でトルコへ旅行、そのときの楽しい思いでなど、ついこの間のように思われるが、その初孫もすでに社会人!

こんな家族ぐるみの三好家とのお付き合いも既に1/4世紀に及ぼうとしている。それだけに三好君の逝去はなんとも残念の一言、今はただ衷心より故人のご冥福をお祈りするばかりである

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