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還暦を迎えられた森教官

山田  穣

 三十五年前、われわれが江田島へ入校したとき、若い青年将校であった森指導官は、ご承知のように、戦後ブラジルに渡航され、そして還暦を迎えられるお年となりました。

 最近、森教官から、還暦祝いの写真を添えてお便りがありましたので、ご了承を得たわけではありませんが、ここに転載させていただき、教官の近況をお知らせしたいと思います。なお、小生に直接関係する部分は省略割愛しましたので、お含み下さい。

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 山田  穣 様

一月二十八日

森 栄

一月二十二日付ご芳書ありがたく拝見しました。明けまして、おめでとうございます。

 内地の現状、さぞかし大変のこととお察し申し上げます。大和民族の勤勉さ、向学心、ノウハウなどにも限度があり、かつ、言論の自由がどのような結果を及ぼすかという実験が行なわれているような祖国の背景を考えますとき、うまく当国に技術、設備、人材、資本を疎開することに成功した各企業は、この豊かな資源、広大な国土を舞台として、こんごの発展は見るべきものがあるように愚考されます。

 その最も顕著な例は、最も早くから当国を認識していた総合商社にありそうで、とくに伊藤忠、丸紅飯田あたりの積極的な世界戦略の展開ぶりは、各企業で大いに参考になりそうです。

 さて、昨年の木刀お役に立って光栄です。一寸重すぎるかも知れませんが、パウサント(聖なる木)で、あれだけのボリュームあるものは珍らしいはずと思っております。

 貴兄のあと、坂元正一氏がこられ、(以下中略)

 

 私も、昨年十二月五日にて、満六十歳を迎え、同封のような祝いを親族内でやってくれました。(写真参照斗あったが掲載省略)

 つぎに、次男芳久、エスピリット・サント州に、三十二町歩の畑を、友人村上伝君と連名で買収し、七十五年から、銀行融資をうけてピメソタを栽培することになり、七十五年一月一日〇八二〇拙宅発、残金支払いに行きましたので、私共夫婦も、次男コンビに便乗して見てまいり、一月四日一四〇〇帰聖しました。片道一、二〇〇キロ (東京〜佐賀くらい)、なかなか良い畑で、周辺環境も良く、あとは銀行融資の段階となりました。

 これで、拙宅移住の目的の具体的一項目である「終戦直後郷里佐賀における被買収」の失地回復の念願も達せられ、移住十年日の明るい新年を迎えることができました。

(中略)

 伯国もインフレと闘いつつ、ついに七十四年も一〇%程度のGNPの伸びをみせ、六十入年の八%から約一〇%台を、ここに七年間連続いたしましたので、こんごも、ますます健全に伸びをみせるものと予想されます。

一筆御礼かたがた近況まで、近影一枚同封、ますますお大事に          早々

 

 追って、長男の東西キミカ、少しづつお客さんを増加中です。(山日注。東西キミカはクラス河野君の会社で、森さんのご長男は、同社のチーフエソジニヤーです。)

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