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平成22年5月15日 校正すみ

森 川  逝 く

野崎 貞雄

 森川恭男兄が死んだ。平成20年9月15日2100 享年85才。

 9月17日1900より堺市ベルコシティホールで通夜が行われた。病臥中のキミ子夫人が長男義人君、長女智子さんに両方から支えられ霊前に進み、焼香されたのを間近に見て、落涙を禁じ得なかった。

 翌18日1100より同所で仏式により告別式が執り行われた。森川家と株式会社大淀との共催である。

 此の会社は森川が赤井さんと共同で育成強化した会社で、平成元年から10年まで 森川が社長を勤めた。

 参列者約200名、盛大な葬儀だった。

友人代表として赤井さんが.嘗ての共同経営者として、叉機関学校の先輩として、真心のこもった弔辞を奉読された。次いで、53期クラス代表として、野崎が弔辞を捧げた。

 ご遺族がご遺体を菊の花で埋め尽くし、最後のお別れをする中で、野崎の指揮で、機関学校同窓生全員で校歌を斉唱し、森川に別れを告げた。

 最後に、喪主森川義人さんが挨拶、謝辞を述べられ閉式した。1230出棺。森川を見送り散会した。

  会葬者  (51期〉浜室 浩、松本茂美  (52期)赤井千河  
       (53期)上野三郎、小田正三、椎野 廣、野崎貞雄、村山 隆、室井 正           (54期)川吉史郎、 望月末治  (55期)佐藤根弘之、横山嘉司

 次いで、泉ヶ丘駅前そば屋で、浜室一号生徒も参加してもらい追悼のミニクラス会を開き、森川を偲んで談論風発し、1500散会した。

 森川の突然の死去に際会し、小生の感慨を申し述べたい。

  85歳で死去と言えば、年齢的には一応長寿の部類に入るだろう。然し彼の場合は、「長寿を全うした」とは言えない。医師の死亡診断は「心不全」との由であるが.遠因は1年前の自転車転倒事故である。後頭部を強打し、脳血管傷害から脳梗塞へ進み、殆ど歩行困難となり、寝たきり状態となった。意識ははっきりしていたが、逐次体力低下し、心不全に至ったようである。彼が入院中の奥さんを見舞いに行く途次の事故で、さぞ無念だったろう。全く同情に堪えない。

  老人が意識的に遵守すべき教訓として、次の三訓を聞いたことかある。

  1、 転ぶな。  2、風邪ひくな。 3、義理を欠け。

 1、2、は読んでのとおり、3は些か奇異に感ずるが、要するに.己の健康管理を第一に考え、勇気ある決断で約束も反故にせよと云うことである。周囲も大きな度量でそれを許容しなければならぬ。

 我が53期も残存艦艇23隻となったが、お互いに、自己管理に努め、励まし合い、余生を楽しみ、少しでも長寿を全うしようではないか。森川の冥福を祈る。

弔  辞

 森川よ、貴様、死に急いだな。 俺は悔しい.残念無念、云う言葉を知らない。

 去る16日、朝の9時頃、椎野から貴様が駄目だったと言う電話連絡を受けた。

 一年余闘病生活をしていたが、肉体精神共盤石の貴様は必ず恢復すると俺は信じて疑わなかった。3月と6月頃だったか長女智子さんに案内されて堺の病院で会ったな。あの時は血色も良く声に張りがあり、この次会う時は 一局やろうと約束した。ベッドの側の棚に碁盤と石があるのを見て俺は嬉しかった。この次来た時は必ずやるぞと約束した。

 貴様は病人らしからぬ鋭い眼差しで俺を睨んだな。俺は貴様のファイトを感じた、そして嬉しかった.俺も闘志を燃やした。然し、あぁ 無情、総(すべ)ては無に帰した。 今は貴様の冥福を祈るのみ。

 思い返せば、我々は昭和1512月1日、海軍機関学校第53期生として舞鶴湾頭に集結、海軍生徒として第一歩を踏み出した。翌1612月8日には大東亜戦争の火蓋が切られた。猛鍛錬の3年を経て、昭和18年9月15日卒業、直ちに連合艦隊の一員として太平洋の第一線に出た。

 卒業に際し貴様は成績優秀により、青木、村山と共に御賜の短剣拝受の栄誉に輝いた。本当に森川こそ我が53期の誇りであり、輝ける星であった。

 海軍少尉候補生として軽巡洋艦龍田、次いで戦艦大和乗組となったが、生徒時代から、これからの海軍の主力は潜水艦と航空機であると確信し、潜水艦を熱望し、それが叶えられ、19年2月海軍潜水学校第11期普通料学生を命せられた。「同期の学生は15名で、その内、池沢 井上、梅原、川崎、嶋野、寺岡、都所、豊住、福田、麦島.村上、山脇の12名は名誉の戦死を遂げられた。生き残りは佐藤、佐原、森川の3名だったが、今回の森川の死去により潜水学校11期は全員他界したことになった。

 如何に潜水艦の戦闘が苛酷であったか、この事実を見ても歴然たるものがある。

貴様は潜水学校修了後、イ号8潜水艦分隊士となり、太平洋狭しと活躍、20年1月、新鋭イ号400潜に転勤、戦闘航海中に太平洋上で終戦の詔勅を拝し、横須賀に帰投した。

 戦陣の運命は苛酷、非情であり.一寸先も予測出米ない。

森川が転勤退艦したイ号8潜は20年3月沖縄東方海面で米軍と交戦、多勢に無勢、勇戦敢闘したが、壮烈な最後を遂げた。森川の後を襲い着任した嶋野は艦と運命を共にした。

 嶋野を始め同期生の8割が戦死し、森川は生き残った。

 平成3年12月、我がクラスは「海軍機関学校第53期入校50周年記念誌・海ゆかば」を上梓(じょうし)した。その中で、森川は「死に遅れを恥じる」と胸中を吐露している。その戦友愛、愛国心、責任感には只々頭が下がるのみ。貴様こそ53期の誇りであり、光だ。

 海軍大尉の軍服を脱ぎ、復員帰郷したが戦争中の無理がたたり、肺浸潤(しんじゅん)となり、長期の入院を余儀なくされ、其の間片肺切除の大手術を受けたが、持ち前の敢闘精神でこれを突破、昭和30年大淀ディーゼル株式会社に入社、数年後取締役に選任され、同社の発展に貢献した。

 其の頃、俺は栗田工業に居り、東京電力、関西電力等の火力発電のボイラーの化学洗滌工事の開発、推進をしていたが、工事の土台とも云うべき大容量ポンプの原動機としてカミンズ社エンジンを供給してもらい、今に到るまで栗田の同部門の発展に非常に協力して頂いたことは全く感謝に堪えない。森川 有り難う。

 キミ子夫人を病床に残したまま先に逝くのは断腸の思いだろう。然し、2人のご子息、義人君と智子さんは立派に成長され、社会の第一線で活躍して居られる。私生活に於いても立派な業績を残された。

 昭和15年から終戦までの5年間を頂点として、今85年の生涯を閉じた。其の間公私に亙り国家社会に貢献し、大きな業績を残された。武人として、又社会人として充実した一生だった。

 森川 ご苦労さんでした。ゆっくり休んで下さい。

 クラスの3/4は既に来世にあり、貴様もその一員となった。あの世から、奥さん、そして森川家一統を見守ってくれ。俺もそのうちに行く。そこでやり残した約束の一局を心行くまで打とうではないか。思いは尽きない。ご冥福を祈る。 さようなら。

平成20年9月18

海軍機関学校第53

クラス代表 野崎 貞雄

(なにわ会ニュース100121頁 平成21年3月掲載)

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