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平成22年5月15日 校正すみ

村上義長兄の葬儀

          室井 正

 平成7年4月胃癌摘出手術をしてから殆ど毎年腸閉塞を発症、その苦しみを乗り越え、更に、平成16年11月には脊椎管狭(さく)症を併発、痛みと苦しみに耐え、一生懸命に頑張ってこられた村上義長兄は、平成20年1月13日、その生涯を終えられました。

 葬儀は、平成20年1月18日通夜、同19日告別式を、洗足池シティーホールで、厳粛に執り行われました。

池上本門寺導師の読経、同僚による海軍機関学校校歌の斉唱、多くの参列者に見送られて式場を後にし、桐ケ谷斎場で荼毘(だび)に付されました。
参列者:
  岩間正春、片山
 勇、金枝健三、斎藤義衛、野崎貞雄、
  三澤
 禎、室井 正、村山 隆、室井夫人、村山夫人、
  泉
 五郎、新庄 

  

  

1月14日1800村山からの電話で貴兄の訃報を知りました。云うべき言葉を失う。

1月6日、村上宅に電話をしましたら奥様から入院されたと聞き、7日1500大森の「いすず」病院に病床を見舞いました。美香子様の付添いで眼を閉じて居られました。酸素マスクを付けて居られたが、顔色は良く、眼を覚まして病状の事、級友の事を話す。疲労を考え20分程で別れる事にしたが、別れ際、握手を2回、挙手の礼を2回、病床に横たわりながらの敬礼、私も応えたが、其の印象は私の眼底から消えなかった。機関学校時代の村上の眼、姿、そのままであった。降り出した雨の中、私は大森駅に向ってトボトボと歩きました。

私達は昭和15年12月1日、海軍機関学校に将校生徒として入校、翌年12月8日には太平洋戦争に突入し、上級生は次々と繰り上げ卒業して戦線へ、私達は昭和18年9月15日、海軍少尉候補生として卒業、戦線に参加する事になりました。

その間、昭和17年11月、私達は一号に進級、分隊編成替えで東京出身の村上、佐賀の小田博之、高知の池沢幹夫、香川の大山隆三に栃木の室井5名、第16分隊の一号として卒業迄の10ヶ月間寝食を共にしました。自習室で机を並べ、寝室では隣のベッド、教室・訓練・休日も一緒、一号生徒として下級生の先頭に立ち、来るべき戦場への覚悟、家族の事、何もかも裸になって話し合う、時にはケンケンガクガク本当に一生の内の最も充実した短くて長い期間を過しました。

貴兄はいつも平静、中庸、黙々として勉強して居られた。血気の多い連中の中にあって貴兄はいつも道を探してくれた。何もかも許し合った級友であり、戦友として戦場へと学校の坂を下りて行きました。

一緒に卒業した111名、艦船31名、潜水艦20名、水中特攻5名、航空機搭乗員20名、航空機整備30名、兵器整備5名。

貴兄は戦艦伊勢、巡洋艦木曽、戦艦日向に乗り組み、横須賀の突撃隊で終戦。

在学中は一日も早く戦場へと願ったが、終って見れば海軍大尉、戦闘部隊第一線の中心として懸命に戦争に参加して来たのであります。

終戦、失意、その中からやっと立ち上がって日本再建の為全身全霊を捧げる事を心に決めて、貴兄は「いすず」自動車で活躍して来たのですが、その間,趣味として俳句に精進を続ける。一貫して貫いた貴兄の人生は中庸であり、スマートであり、昔のままの篤実な男として尊敬してやまないのであります。

本日遂に貴兄を送る事となってしまったが、級友111名、戦死者57名、戦後死没者30名。86名の級友が首を長くして待って居ります。残された24名、今や85才、気息奄々(えんえん)です。

御別れの淋しさは例え様もありません。改めて御冥福を御祈り致します。

残されました御遺族の無念を思いますと心が痛みます。

どうか天国に在って将来を見守って下さい。

 村上君  さようなら  

 平成20年1月19日

  海軍機関学校第53期級会  

        代表 室井 

(なにわ会ニュース98号30頁 平成20年3月掲載)

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