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平成22年5月11日 校正すみ

中田隆保君 交通事故で急逝

大森慎二郎(機)

最近、商売上の先輩としていろいろ指導助言をもらっている兵科の加藤(孝二)から電話がかかってきたのは8月23日の午前であった。 また例のカメラのことかと思って何気なく受話器を取り上げると、いつもと違った口調で「実は」と中田隆保君の不慮の事故を告げられた。一瞬まさかと思ったが、やはり悲しい事実であった。

中田君とは乗艦実習として乗組んだ伊勢で別れて以来、再び会いまみえることもなく、永別しなければならないことにいいしれぬ淋しい気持である。

あの特徴ある笑顔、体を振って歩く独特の歩き方等を思い出す時に、可烈なる戦争中を生き抜いて、また、特に最後の大和出撃の壮挙にも参加、負傷を負って生還した彼が、前途有為の身を突然の事故により、世を去るということは、本人はもとより、残されたご遺族の胸中は察するに余りあるものがある。

小生の彼との出会いは35年前の昭和8年鎌倉から転校していった八幡小学校5年1組であった。当時の八幡小学校のあった奥沢町は隣接の田園調布、自由ケ丘、尾山台等と共に前年度大東京に編入されたばかりの新興住宅地で、特に奥沢は俗に海軍村といわれ、学校も海軍の子弟の非常に多い、東京でも異色の所であった。         

われわれの5年2組にも50名の級中海軍の子弟が7、8名を数え、中田君を始め福留 徹(兵70期)伊藤比良夫(72期)の諸君、小生等はその仲間であった。また、この級から海軍に進んだ者もこの4名の他に小林岳彦(機52期)君がいた。

1年前、佐世保から転校してきたという、当時の中田君は小柄ながら色黒く、まるまるとした健康優良児そのもので、常に冗談飛ばし、彼の周囲には何時も明るい朗らかな笑声があって、温和しかった伊藤君、秀才であった福留君等と共に級の人気者であった。その年は皇太子誕生の年だったと記憶している。

6年に進んだ時、級は分れ、福留、伊藤、小林の3君は1組に残り、小生と中田君等は2組に編入され、担任も長田先生から鷲見先生に変った。2組は所謂男女組であったためか男生徒同志の親密度も深く、中学進学のための補習授業も一緒にやったものだが、何時も明るい冗談を言っては試験準備の圧迫感をときほぐす役目をしていたのは彼であり、また、小生が足の骨折で1カ月ばかり休んだ時、友をさそって「どう、まだ痛い?」といって真っ先に見舞ってくれたのも彼であった。

また、3年下の級の可愛らしい妹さんや調布高女に通っておられたお姉さんの話もよく聞かされたものである。当時はご両親も健在でご一家で散歩している姿を一、二度見かけたことがあるが、海軍大佐であったお父君は立派な堂々たる体格の方だったと記憶している。

彼の想い出はいろいろあるが、特に6年の運動会の時と思う。百米競走でスタートと同時に転倒した彼が、前の集団に追いつくべく歯を喰いしはって走る姿は、後年の彼の頑張りの精神の姿であり、また、その彼を妹さんが一生懸命声援していた光景は彼の兄妹愛を物語るものと言えるであろう。

6年卒業と同時に、中田、北条司朗(北条律郎 72期の兄)医学方面へ進んだ大谷の三君と小生は府立8中に、また福留(4中)伊藤(神奈川2中)小林(攻玉社中)君らと分れていった。

中学に入学してから中田君はC組、小生はB組(新庄、土井 寛(71期、土井仁の兄)、真田(73期)がいた)と分れ、4年までは級も別々になったが、廊下運動場等で会うと「よう元気か!」と彼特有の明るい笑顔で手を挙げるのが常であった。4年の時、再び同じ級に編入されたが小学校時代そのままに「慎ちゃん」を連発するのにはいささか閉口したものだが、相変らず冗談をいっては笑わす明るさは昔と変らなかった。

中学卒業後は、彼は新庄、谷内等と江田島へ、小生は村上(義)と舞鶴へと分れて久しく会う機会もなかったが、卒業前、江田島訪問の機会を得て一号時代の中田君始め新庄、浜田一郎、北条律郎また伊藤比良雄の諸君と久潤を寂し歓談した。

卒業後、再び軍艦伊勢で一緒になったが、彼は兵科でデッキ・艦橋等の勤務、われわれは機械室・缶室と艦底の勤務のため、なかなか会う機会もなかったが、途中で会うと「よう元気か」と肩をたたいて別れるのが常であった。

その後、小生は飛行機整備に、彼は念願の父子二代にわたる駆逐艦へと苛烈なる戦闘に突入していった。兵学校、艦隊時代の彼についてはクラスの諸君から詳しく記されると思うが、幼い時からの明るさと頑張りで難局に全力をつくしたと信ずる。

戦後は共に苦難の途を歩んだことは、すべての力を戦争に出しきったわれわれにとっては、将に耐え難き苦痛であったが、両手負傷という肉体的悪条件を克服しなければならない彼の苦衷は想像に絶するものがある。また、一年間、充分食事もとれぬ彼に、スプーンで食事をさせたという妹さんの献身的な姿も幼少の頃からの姉弟妹愛の結実であろう。

中学校の頃、ご両親を亡くされた時「愈々男は俺一人になったよ、責任重大だな」とポッリと語った彼の印象が今も強く残っている。

小生も大学卒業を前に発病、前後七年に亘る闘病生活をよぎなくされ、一時将来への希望を失った時もあるが、最近、漸く生活の見通しもでき、多くの先輩級友との再会を楽しみにしていた突先、彼と再び合う機会を失ったことは誠に残念である。

今は亡き中田君の冥福を祈ると共に、ご遺族のご悲嘆を推察し胸迫るものがある。どうか厳しい社会ではありますが、力強く生きて下さい。

想えば永い中田隆保君との交友であったが、これが彼との永別になろうとは。

中田君、安らかに眠ってくれ。そして残されたご遺族に明るい光を与えてくれ。

(なにわ会ニュース15号5頁 昭和43年9月掲載)

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