平成22年5月11日 校正すみ
中田隆保君 交通事故で急逝
大谷 友之
「半年」と「二日」これが中田隆保と私とが戦時中に一緒であった期間である。
「半年」これは航空母艦「天城」の「ガンルーム」で生活を共にし、呉軍港の先任「チャージ」を僭称して、脾肉の嘆を託ちながら、貫禄不足を髯で補った時代である。
「二日」これは昭和20年4月8日、9日である。かつての「天城」の僚友は冬月」「霞」の航海長として「大和」の護衛駆逐艦に乗組み沖縄へ出撃した。
爆撃を受け航行不能となった「霞」の乗組員は生存者全員「冬月」に横付けの上救助され、私は中田隆保と再会した。再会した中田隆保は艦橋にはおらず、両手を機銃弾で撃ち抜かれ、重傷の身であった・・・・。
「今夜は中田の通夜だから」と集った期友が中田の居た2階の部屋で酒を呑んでいる。これで中田が喜んでいるだろうともいう。不思議に涙の出ない・・・空虚な夜だ。愚痴をこぼさず、頑張って来た中田、もう話ができなくなったな。真似のできない独特のスタイルで酒を提げて階段を昇って来るような気がする。死んでしまったのだと思いながらも、通夜の仲間のうちにいるような錯覚に陥る。女々しいぞと仏に怒られそうだ。
交通戦争ということを、今日程ひしひしと感じた日はない。不満だろうが成仏してくれ。
(なにわ会ニュース15号5頁 昭和43年9月掲載)