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平成22年5月5日 校正すみ

小田博之君への弔辞

室井  

小田君、昨14日夜、村山から貴兄の計報を受け云うべき言葉を失いました。

思えば最後に会ったのは、級会の九州旅行の時、有田で奥様と一緒に出迎えられ、いつもの笑顔で、肺ガンは手術後順調に回復して居り大丈夫だと、元気に言っていた顔を思い出します。

我々は昭和1512月1日、海軍機関学校に入校し、翌年12月には太平洋戦争に突入と云う事で繰り上げ卒業になり、昭和18年9月15日卒業したわけです。

貴兄との切なる思い出は、昭和1711月未、最上級生の一号生徒に進級し、分隊編成替えの結果、村上、池沢、大山と共に第16分隊で一緒になり、特に隣の机、隣のベッドと言うことになったわけです。あと9ヶ月で来るべき戦場への思いを抱きながら、共に朝な夕な、将来の夢や希望、覚悟を語りあう事が出来たわけで、卒業までの毎日が思い出されてなりません。

貴様は佐賀の男、葉隠れの匂いを身体一杯にみなぎらせて居った姿を何としても忘れることは出来ません。

我等の青春の日々でした。

意気揚々と卒業し、第一線に配属になっていったが、貴様は先ず巡洋艦大井乗組となり、激戦を経て、更に、土浦航空隊教官として陣頭に立ち、横須賀突撃隊に転じ、海龍隊長として頑張ったわけだが、懸命の努力も空しく終戦を迎える事となった。

戦後は第194号海防艦機関長として復員輸送、戦後処理を済ませたのでした。其の後家族と共に心機一転を期してアルゼンチンに渡る。

アルゼンチン海軍の柔道教官をやって居ったが、昭利3011月帰国し、一夜東京の私宅において徹夜で人生論を戦わせ、それから海上自衛隊に入る事になったわけで、貴様の気骨隆々たる生きざまがしみじみと思い出されます。

入隊後は、第2術科学校教官、護衛艦機関長、群司令部参謀、練習艦隊参謀、佐世保教育隊司令等々を歴任し、独特の足跡を残して来ました。

退官後は佐賀の空調関係企業に加わり、独得の実績を残す事が出来たと聞いて、私自身も誇りに思って居ります。

私生活では懸命にゴルフを行い、多くの友人と共に楽しんで居りよした。後年残念ながら肺ガンに冒される事となり、其の後の闘病生活は壮絶の一語に尽きる感じであったと聞きました。

頑振り屋の小由君、今は安らかに御休み下さい。

戦後も既に50年が経ちました。残された級友も34名になってしまいました。

本日遂に君を見送る事になり、淋しさ例え様もありません。

改めて御冥福を御祈り申し上げます。

残された御遺族の無念を思うと心が痛みます。どうか天国に在って将来を見守ってあげて下さい。

小田君、「さようなら」

平成1116

海軍機関学校第53期級会

代表 室井  

(なにわ会ニュース82号5頁 平成12年3月掲載)

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