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平成22年5月4日 校正すみ

岡本の死―兵器学生の青春―

白根 行男

岡本が死んだという報せは、5月28日の夕刻、岡本の長女の嫁ぎ先の父上から、当日早朝死去したこと、海軍の同期生関係では白根さんに是非お伝えすべき由なのでお伝えします、という電話であった。病の篤かったことも全く知らなかった私は、まさにしばし絶句したが、告別式は翌29日、午後1時半という慌しさであり、直ちに早朝の新幹線に乗ることを決意し、クラス及び洲崎空関係者に連絡をとった。   

兵72期、機53期を中心とする第2期兵器学生は、昭和19年9月に第一線に出たのであるが、村島と私が予備学生教官として、岡本も学生科長附で残ることとなったので、今は何れも故人となってしまった二人との青春の賦は僅々数ヶ月のことであったが、仕事茫々の中で際立ったものがある。中でも、中尉時代の大半を共にした岡本は、勤務上の事はとも角、殆ど連れ立って飲みに出た館山のレスを中核に、今尚続く一人のSとの淡い交友関係もあり、洲崎空―館山を結ぶ追憶の糸を手繰り合える唯一無二の存在であった。当時の彼は、腎臓に若干の個疾があり、酒は殆んど飲まなかったが、生来の器用さであろうか、唄と踊りの覚えが滅法早く、座もちも抜群であった。アンダマン諸島を支配下においた頃の東條首相の演説の物まねがうまく、色の黒さと大きな眼玉から、チャンドラボースという仇名がついていた。我々下級士官のレス街に出る方法は、上陸用の定期バスとか自動車とか、そんな文明の利器によるものではなく、殆ど相乗りの自転車であった。幸い彼は酔う程は飲まない習わしであったから、往きは小生の動力でうきうきとペダルを踏み、帰途は、ほぼ出来上った小生を後に積んでの彼の安全運転であった。一度は酔いすぎた小生の爪先が車輪にからんだのか、相当の崖から二人共転落したこともある。岡本にとってまさに往きは良い、良い、帰りは恐い、であったろう。まして帰りの方がだらだら坂を上るのだから。当時館山一の半玉にE子というSがおり、館山を基地とする諸部隊(館空、洲空、館砲)下級将校のアイドルであった。若干のヘル談を基礎教育としてうけ、壮気凛々たる当時の我々にとって、如何に腰から下は人格に入らぬと教えられていても、Sは皆おしなべて眩しく岡本と一緒の期間は二人共まさにノータッチ、ノーフックであった。まして件のE子の真に少女のようなアドケナサ、可愛らしさが不憫でならなかった。殆どの士官が妹のように過した等である。戦敗れた昭和20年の晩秋、館山を訪ねE子に会った時「私はもうバーではありません。白根さんとPOSりたかったのに……」……小生思わずひしと抱きしめたとここでは書いておこう。……実は、岡本とこういうくだらぬ話を取交さなかったことが今悔まれるのだ。我々の使ったレスは鈴木が代表であり、昔のまま今に残っているが、所有主は死に絶えて別人に変っている。当時のおかみが若い我々に格別親切で、性悪なバーヂンハンター的Sと深みにはまらぬよう、時宜を得た警告をしてくれたものだが、昭和20年の3月以降、彼岡本はそんなおかみのリコメソドの下、初陣に臨んだに違いないのだが、その話を聞き洩らしているのが悔まれる。件のE子と数年前に会った時、71期の鹿村氏(本州製紙本社)、74期武田氏(鹿島建設本社)3人の席に、袋一杯の海軍士官連の写真を持参して来た。裏には大部分官氏名が書いてあり、中には私の一番好きな海軍さんとか何とか記してあるものもあった。
 話は変わるが,72期の卒業アルバムを複刊する作業の頃、森山修一郎のお姉さんと会う時があったが、「修一郎は女を知って死んで行ったでしょうか」と尋ねられた。兵器学生卒業と共に第一線に出たのだから内地では考えられないが、フィリッピンで知ったと思いますと答えたことを思い出す。豊田
 穣氏の小説にも、戦死した息子のインチのSを父親が訪れ深々と挨拶する場面があったが、‥‥‥死んでしまった岡本を想うと、滅んでしまった海軍の、いや館山の若き日のSとの関りあいをあれこれ想像せずにはおれない。

岡本の野辺の送りの様子を数名のクラスに報告した際、コレスの片山から次のような話を聞いた。

 19年の9月、比島方面出陣の森山、片山、溝井等4名の壮行会を横須賀分遣隊の某少佐が催してくれ、上官の肝入りで一同バーを落してゆくことになり、それぞれSがついたまでは良いが、パインメイド頭(愛称花サン)の不用意さのため(片山はそう云っていたが、小生の想像では花子さんの多分森山に対する嫉妬からだと思うのだが)大部屋に四組のフィッシュと相成り、男女八名の目刺となってまんじりともしない短夜をすごし、翌早朝充血した体を軍歌に発散し乍ら国鉄横須賀に向ったそうである。壮行を念ずるそれぞれの家族は、新橋第一ホテルで朝帰りの4名を迎えたという話である。これで森山のお姉さんに答えた小生の答は、ほぼ正確であったことが証明された訳である。(なにわ会誌を読んで頂いているものとして、横道に外れた話をのせた次第です)

 この稿を書いている際、未亡人となった岡本タカ子さんにクラス会報にのせる写真について相談の電話を入れた。葬儀中とは違って一人淋しさの訪れる昨今なのか、声に張りがないように思われた。そんな時機の未亡人にいわばみだらな青春の回想などと、お叱りをうけそうであるが、もう少し辛抱して下さい。

20年4月以後、岡本は74期中心の第4期兵器学生の指導官となり、終戦時は学生を引率して横須賀分遣隊(航空魚雷の術科学校)にあったが、常に行動を共にしていた71期鹿村氏証言によれば、レスからは必ず帰隊していたそうで、小生の憶測は外れていることが最近わかった。然し、先述のE子と同じ置家に岡本のハートインチがいたと思ぅ。彼女は終戦迄に胸の病で死んだ筈でその病床を見舞った話をきいたような気がする。再び話は変るが、「妻たちの二・二六事件」という本に、事件処刑者14名の未亡人を中心にした戦中戦後のドキュメントが記されている。この本は、仕事を通じて相知るようになった陸軍特攻第一陣富嶽隊隊長の実兄から贈呈されたもので、少佐で突入された隊長は勿論結婚していたが新婚早々であった。戦死後その実兄ははやばやと若い未亡人を実家に帰し、もろもろの呪縛から解放してあげたそうである。

その中に書かれている四谷大木戸の芸者Oのことが、ひとは小生の胸をうった。遺族は事件後、30年経た法要の後に相思のO女の存在がわかり、故人ゆかりの羽布団を贈ったというのである。これは事実であり、情念の世界としてもうらやましき話のように思われる。「岡本が死ぬ2日前、自根さんを呼んで欲しいといったのですが・・」告別式当日、玄関に迎えてくれた奥さんの第一声であった。日記を書いていない小生にとって、思い出せる26日は一度此の本に魅せられていた時であった。我々世代の物心ついた頃と云えば、「鳴った 鳴った ボウボウ サイレン サイレン・‥‥」

  いやが上にも建前の教育が盛になった時で、憶えは日露戦争後約30年に相当する。小学校を卒える直前があの二・二六であった。やがて中学の4、5年頃、殆どの少年に「泪羅の淵に波騒ぐ」悲壮感が打寄せてきた。太平の現状は、ほぼ定着しつつある市民的幸福感のようなものを拒絶するムードが、びっしり我々を取り巻いていたように思う。そして戦前日本国として世界に誇れる水準にあったといわれる、水泳、三井物産、海軍のうち、我々は最後の道に進んだ。5月27日正午ごろ、生存海軍軍楽隊員(平均年令57歳)による演奏会が、新宿三井ビル前広場で行われた。テレビアナウンサーらしい若い司会者は「きく所によりますと、本日は戦前の海軍記念日だそうでして‥‥・」と進行を始めた。生の音は流石に迫力に富み、江田島できくチャンスのあった呉鎮軍楽隊の演奏を想起した。

ともあれ、戦後30年、5月27日はきく所によりますと・・・になっていた。いう迄もなく、戦前人として一生を終える我々にとって昔の祝祭日や記念日は容易に消えないが、陸軍記念日は村島の命日となり、海軍記念日は岡本の命日とほぼ重なってしまった。関西では、親しい友人夫婦の間に「死に勝」という俗諺がある。残されたものの辛さを、人の世の虚しさを云い得て妙と思う。

岡本とは、もう会えなくなってしまった。兵器学生の集いを再び催すことはあろうけれども、小生の淋しさはどうしようもない。岡本の家は山陽新幹線小郡から遠くない。山陽線四辻駅付近で尋ねれば容易に辿りつける。家を守る長男の康時君(近くの積水ハウス勤務)は染五郎タイプの男前で、この7月の末に男の赤ちゃんが生れたそうである。岡本は内孫の第一子を見ることが出来なかった訳だ。新味三千代はりの長女はつみさんは、2人の子宝に恵まれており、岡本もかなり早くからお爺ちゃんであった訳だ。

式当日、小郡で下車してホームを歩いていると真横を、小生からの連絡で岩国から乗り合ゎせていた70期の二宮さん(当時の予備学生隊長から源田さんの343空の兵器分隊長になった)と並んだ。お互い「ヤァ、ヤァ」であった。

  またふと出口側をみれば、黒の正装の樋口輝喜が眼鏡を光らして待っているではないか。迂潤にも小生、樋口への連絡を忘れていたが、大谷―三好―樋口の通信回路で状況を知り、式に合わせた新幹線時刻表の検討で到着を待っていたという。樋口の車で式に臨めたことはもつけの幸いであった。改めてクラスメートの紐帯の有難さに感じ入った次第である。

 母校防府中学の同窓のうちネイビイ関係者として、71期の斉藤氏、コレスの吉本が参列していた。

「葬式に市瀬と白根はよく似合う」などと皮肉とも悪口ともつかぬことを加藤孝二は云うが、似合うもののそう再々起きないことを念じて擱筆する。

(なにわ会ニュース35号12頁 平成51年9月掲載)

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